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よっぱ、酔っぱ。ただの酒飲みでよっぱなヲイラの戯言です。

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幾松 (いくまつ IKUMATSU)No26

Category : 幾松 (いくまつ IKUMATSU)

こそりと修正されている旅館幾松の歴史について、あれこれ。


【ここから続き】

上木屋町 幾松

歴史(2006年11月5日 Ver)

歴史

幾松は1810年に長州藩の控屋敷として建てられました。高瀬川と鴨川に挟まれ、京都市街の中心にあるにもかかわらず、静かな佇まいで、玄関は柳の並木が美しい木屋町沿いに面しております。現在は静かで平和な土地でございますが、幕末は長州や薩摩の藩士達が行き交い、殺伐としておりました。

桂小五郎・幾松寓居のあと

維新の指導的政治家 木戸孝允(1833~1877)は、もとの名前を桂小五郎といって幕末の頃、倒幕運動推進に大きな役割をはたしたことは、すでに御存知のところです。 旅館幾松は当時長州藩控屋敷(明治維新の参謀本部)になっていました。このため近藤勇をはじめとする新撰組にいくども斬りこみをかけられました。その部屋が今なお当時の姿のまま残されています。幾松は三本木の芸者で、のちに木戸夫人になった人です。その幾松と桂小五郎が住んでいたのがこの旅館幾松です。二人の寓居跡として京都に残された由緒ある旧蹟のひとつです。

幾松の部屋

桂小五郎と幾松(後の夫人)の寓居跡です。つり天井、ぬけ穴、など当時のまま保存されています。明治維新の参謀本部もここにありました。当時は不意の敵にそなえて天井に大きな石がしかけてありました。幾松は登録有形文化財に指定されています。 お食事、ご宿泊にご予約いただきましたお客様に説明付きでお部屋を案内させていただいております。

上木屋町 幾松

歴史(2007年11月5日 Ver)

歴史

「幾松」は、幕末の頃倒幕運動に大きな役割を果たした木戸孝允(桂小五郎)と、幾松(のちの松子夫人)の寓居跡でございます。1810年に建てられた屋敷の2棟は国の有形登録文化財に指定されております。

桂小五郎・幾松寓居のあと

幾松は若狭小浜生まれ。小浜藩士の木崎市兵衛と、医師の細川益庵の娘との間に生を受けました。しかし幼少の頃、藩内の事件から父、市兵衛が妻子を残して出奔。八歳の時に京都に出てそののち三本木の芸妓になりました。桂小五郎とのロマンスは文久のころから始まったと伝えられております。当時、反勢力より、常に命を狙われていた桂小五郎を自らの命をかけ、機転を利かせ護りぬいた幾松の気丈さと愛の深さ、また二人の信頼関係の強さは、維新後の明治時代の人々にも多くの尊敬を集めました。明治維新後、桂小五郎は木戸孝允と改名し、参議など要職を歴任、政府内の進歩派の中心として、廃藩置県、藩政奉還に尽力しました。幾松は山口藩士の岡部富太郎の養女となり松子と改名、正式に木戸孝允の妻となりました。殺伐とした幕末動乱期に花を咲かせた二人のロマンスは、時を経た現代の私たちにも深い共感を呼ぶあでやかなエピソードとして名高いものです。

幾松の部屋

幕末当時、幾度となく新撰組の斬り込みを受けたと伝えられている当屋敷でございますが、今も尚、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井など出来る限り当時に近い状態で保存いたしております。当時は、不意の敵にそなえて、幾松の間の天井には750kgほどの大きな石が仕掛けられておりました。全てをご覧頂くことは出来ませんが、御希望のお客様にはお食事の前に簡単な幾松の間の説明をさせて頂いております。

上木屋町 幾松

歴史(2008年09月16日現在)

歴史

2007年11月5日 Ver と同じ。

桂小五郎・幾松寓居のあと

2007年11月5日 Ver と同じ。

幾松の部屋

幕末当時、幾度となく新撰組の斬り込みを受けたと伝えられている当屋敷でございますが、今も尚、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井など出来る限り当時に近い状態で保存いたしております。当時は、不意の敵にそなえて、幾松の間の天井には大きな石が仕掛けられておりました。全てをご覧頂くことは出来ませんが、御希望のお客様にはお食事の前に簡単な幾松の間の説明をさせて頂いております。

WEB SITE 開設時からずっと書かれている「1810年に建てられた」って部分。有形登録文化財への登録が2004年9月だから、それを受けて書いているんだと推測する。近代建造物としての評価は概ね100年以上(最低50年以上)経過しているものらしいのだが、幾松については正確な時期は判明せず、180年~200年ぐらい経過しているのでは?って判断だった。文化庁のデータベースでも「本館東棟 年代:江戸末期~明治初期」「本館南棟 年代:明治中期」としか記されてはいない。仮に1810年に建てられたって資料が存在するのなら文化庁もその資料を元にしただろうし。

要は「200年前って事は1810年にしとくか!」ってだけの話。10年も経てば「1810年に建てられた」って事が真実であるかのように一人歩きするんだろうな。(w

でもって「長州藩控屋敷(明治維新の参謀本部)」って説明が2007年11月5日 Ver から削除されている。やばくなってきて、修正・削除しているんだろう。だって控屋敷が存在したなんて資料はどこにも存在しないし、ましてや長州藩控屋敷って資料も。更にそこが明治維新の参謀本部であったなんて。(w

以前は「極秘の参謀本部であったため誰にも知られていない」なんて記事も目にしたしね。まっ削除して当然でしょうな。

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