Category : 幾松 (いくまつ IKUMATSU)
前回のエントリー「寺田屋関係資料9種とそれに関するコメント」で掲載した京都歴史資料館の調査報告書だが、異なるバージョンがある事が判明したので差し替える。
【ここから続き】
現在同報告書は3種類のバージョンが存在するようだ。
- 9月25日に報道機関へ公開されたバージョン(報道用ということで稿本から「冗長な部分」が削られている。)
- 歴史資料館で閲覧用に作成した第1版(報道用の「冗長な部分」若干を復元したもの。前回のエントリーで転載したバージョン。)
- 現在閲覧に供している第2版(10月3日版 ほぼ完全に稿本のまま。)
どれもすべて同じ9種の資料を検討対象とし、基本的部分、過程と結論に変りは無いが、2008年10月3日版では結論部分が復活されている。
寺田屋関係資料9種と若干のコメント
2008 年9 月1 日発売週刊ポスト誌9 月12 日号に「平成の「寺田屋騒動」」と題した記事が掲載された。この記事は,伏見寺田屋は鳥羽伏見戦で焼失し,現在の建物はその後再建されたものであると主張する。
事前に同誌の取材を受けた京都市産業観光局観光部観光企画課では「ご指摘の件は至急調査確認」(ポスト誌による)すると回答した。その後,京都市歴史資料館に調査依頼があり,当館では「寺田屋が鳥羽伏見戦で焼失した」と結論づける調査報告を提出。9 月25 日,産業観光局観光部ではこれを各報道機関に配布した。
本稿は京都市産業観光局観光部(担当観光企画課)の依頼により作成した寺田屋再建に関する京都市歴史資料館の報告書をもとにしている。原報告書は報道機関向けの資料として作成したので,煩雑な部分を削除している。本稿は調査にあたって作成した稿本を復元したものである。報道機関向け資料から省略するところはなく,多少煩瑣な情報が付け加えられているのみである。
2008 年10月
京都市歴史資料館
(担当:歴史調査担当課長伊東宗裕)
1.鳥羽伏見の戦の時期を語る資料の検討
検討資料1〜3 かわら版類
慶応4年正月3日(1868年1月27日)に起きた鳥羽伏見の戦で,伏見の市街にには戦火により大きな被害が発生した。[資料1]〜[資料3]はそのようすを知らせるかわら版で,焼失範囲が朱色で塗られている。寺田屋の位置を示す●印は,調査者が附加したもので原本にはない。いずれも京都市歴史資料館蔵(大塚コレクション)。
資料1
資料1(部分)
資料2
資料2(部分)
資料3
資料3(部分)
京都市歴史資料館蔵(大塚コレクション)
検討資料4 寺田屋伊助申立書
明治39年(1906)に記されたこの資料で,七代目寺田屋(寺田)伊助(おとせの養子)は「此事(寺田屋騒動死者の供養を続けたこと)ニ因り,其後勤王家ノ浪士ヨリ詩歌抔贈ラレ候モ,惜哉戊辰ノ兵燹(戦争による火災)ニ罹リ家屋諸共焼失シ今ハ只左ノ二(鎗の穂先と有馬新七の書)ノミ所有致居申候」と記す。
本報告書に引いたものは『坂本龍馬全集』に活字化されたもので,原本は京都大学図書館蔵と注記する。原本について京都大学附属図書館に照会したところ所在未詳ということである。
(前略)
此事ニ因り,其後勤王家ノ浪士ヨリ詩歌抔贈ラレ候モ,惜哉戊辰ノ兵燹ニ罹リ家屋諸共焼失シ今ハ只左ノ二ノミ所有致居申候
(中略)
明治三十九年五月 寺田伊助
平尾道雄監修・宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』(1988年光風社)760頁
検討資料5 寺田屋おとせ書状
龍馬の妻おりょうへ宛てた書状で,年月日未詳だが,慶応4年の鳥羽伏見の戦の後のものと推定されている。その推定根拠は京都国立博物館編『龍馬の翔けた時代』の解説によれば「此頃はよそにかゝり人に成おもふにまかせす,内もかり屋を立居申候」と書く一節による。鳥羽伏見の戦で寺田屋が焼かれたという前提に立ち,だから「かり屋(仮家)」を建てたのは慶応4年のことだと判定しているから,証拠能力はちょっと弱い。
(前略)
まだまだたんとたんともふし上事もやまやまに候へ共此頃はよそにかゝり人に成おもふにまかせす,内もかり屋を立居申候ゆへほんのあらまし申上候
(後略)
京都国立博物館 同館展示「龍馬の翔けた時代」図録(2005年)185頁による
2 その後の時期を語る資料の検討
検討資料6 薩藩九烈士遺蹟表

現寺田屋東側の空地に「薩藩九烈士遺蹟表」というタイトルを持った碑が立っている。この碑は文久2年の寺田屋騒動で亡くなった薩摩藩士9名を顕彰する碑で,明治27年(1894)に建てられた。
その碑文に「今茲甲午三十三回忌辰伏見人追慕修祭建銅表于寺田屋遺址請文于余」という一節がある。大意(歴史資料館作成)は「ことし明治27年は九烈士の三十三回忌で,伏見の住人は供養を行い寺田屋の遺址に銅の碑を建て,その碑文をわたし(碑文の筆者川田剛)に依頼した」。
寺田屋の「遺址」というからは,寺田屋はこの時存在しなかったということになる。これを検討する必要がある。
碑文の筆者川田剛(号甕江,1830〜96)は当時一流の文章家であった。ここで文章というのは漢文,すなわち古典中国語のこと。ということは,ここで書かれた「遺址」ということばの一般的な意を知ろうと思えば古典中国語の辞書をひく必要がある。
その代表である中華人民共和国の『漢語大詞典』には「遺址」の項に「亦作“遺阯”。指年久被毀的建築物所在的地方(「遺阯」とも書く。壊されて年月を経過した建築物があった場所をいう)」と語義を記す。この語義を適用すれば「寺田屋の遺址」は「壊されて(火災で焼けて)なくなった寺田屋があった場所」ということになる。すなわち明治27年当時寺田屋の建物はなかったということにになる。
あるいは,この「遺址」は碑の篆額(篆字で書かれたタイトル)に記す「遺蹟」と同様に「(焼けずに残った)九烈士ゆかりの寺田屋」を指すという意見もあるかもしれない。同様に『漢語大辞典』をひくと「遺迹」の項に「亦作“遺跡”,“遺蹟”(「遺跡」「遺蹟」とも書く)」と記し,いくつかの基本的な語義をあげるが,遺址が建物に重きをおくのに対し,人に重きをおいているようである。語義のひとつに「指古代或時代的人和事物遺留下来的痕迹(残された古い時代の人物と「ものごとの痕跡をいう)」がある。つまり篆額の「遺蹟」は,幕末当時の寺田屋の建物の存否は別にして,九烈士ゆかりの地であることをいい,碑文中の「遺址」は寺田屋という建物の跡地を指すと考えるのが妥当である。
/* ここは naka の補足部分です。 */薩藩九烈士遺蹟表【篆額】
大丈夫擧事不必身収其功使後人繼起以成志則喪元斷■(*1)亦無所憾焉何哉志在天下國家非爲一身謀故也往時幕府失政内項訌外悔衆心乖離識者皆知起帥問罪以復王權之爲急務然告之士大夫則日時機未至告之候伯則日時機未至乃告之公卿縉紳亦日時機未至鳴呼坐待時機日復一日孰能挺身發難於是薩摩藩九烈士糾合同志奮欲擧兵有司論止不聽格闘殞命于伏見逆旅寺田屋世阿或惜其徒死無効殊不知一死以鼓動海内士氣是其素志他日于五條于生野于天王山豪傑踵起百折不撓薩長諸藩亦出師勤王成中興大業果不違其所豫期死者而有知應含笑地下也九烈士者爲誰曰有馬新七曰田中謙助曰橋口傳蔵曰柴山愛次郎曰弟子丸龍助曰橋口壯助曰西田直五郎曰森山新五左衛門曰山本四郎其死實文久壬戌四月廿三日今茲甲午三十三回忌辰伏見人追慕修祭建銅于寺田屋遺址請文于余余嘗過宇治平等院弔源三位故跡所謂扇芝者低徊不能去蓋壽永中平氏専横頼朝義仲等擧兵討我以亡之然非三位首倡發難安能得遽奏偉勲此地距宇治咫尺而九烈士事又相類焉故余揮筆大書表其功烈與扇芝並傳美千載後人過此亦必有低囘不能去者矣
明治廿七年五月 正四位勲四等文學博士川田剛撰
從五位長■(*2)書
參謀總長兼神宮祭主陸軍大将大勲位熾仁親王篆額
注:■(*1)■(*2)の文字は表示できませんでした。それぞれ次の画像の文字です。
- ■(*1)=

- ■(*2)=

(大意 歴史資料館作成)
志を持った男子は,自分の手によって大事をなしとげられなくても,あとに続く人が成就してくれれば満足するものである。
幕末に開国の論議が起こったとき,幕府の体たらくは見るにたえなかった。幕府を倒して王政に復することが急務であることをみな理解はしていたが,其の立場にある大名や公家に言っても,その時期ではないという答えが返ってきて,誰も実行する者はいなかった。このとき,薩摩藩の九烈士は同士を集めて挙兵を計画し,藩の上役が止めたが聞かずに伏見寺田屋で闘争して命を落とした。
目的を果たさず犬死にだといわれたが,自分を犠牲にしても天下を動かすことが目的だったのを人は知らないのである。後日,五條や生野や天王山で志士が蹶起し,ついに薩長の両藩の力で維新の大業を成し遂げた。これこそ彼らが期待していたことなのである。もし地下の彼らが知ることができたら,会心の笑みを浮かべるだろう。
九烈士とは,有馬新七,田中謙助,橋口伝蔵,柴山愛次郎,弟子丸龍助。橋口壮助,西田直五郎,森山新五左衛門,山本四郎である。彼らが命をおとしたのは文久2年4月23日(1862年5月21日)のことであった。
ことし明治27年は九烈士の三十三回忌で,伏見の住人は供養を行い寺田屋の遺址に銅の碑を建て,その碑文をわたしに依頼した。
わたし(碑文の筆者川田剛)はかつて宇治平等院を訪れ,源三位頼政の古跡を弔った。平家が横暴を極めるなか,失敗したとはいえ頼政の挙兵がなければ平家は滅亡にいたらなかったであろう。
この地寺田屋は宇治からは遠くないところにあり,九烈士の事績もまた頼政と似ている。頼政の古跡に感動したわたしは,だから碑文を執筆することにした。のちの世の人もわたしが頼政の古跡でやったように,しばらくたたずんで去りがたい気持になる者があるだろう。
検討資料7 寺田屋恩賜紀念の碑

同じく現寺田屋東側空地に「恩賜紀念之碑」というタイトルを持った碑がある。この碑は,碑文中にいう皇后奇夢事件のあとで,坂本龍馬をよく支援したと明治天皇皇后から当主寺田伊助に金若干が下賜されたことを記念し,明治37年(1904)に建立された。
その碑文に「(碑文の筆者大浦兼武は明治37年)五月六日伏見町の大黒寺に詣り九烈士の墳墓を展し又寺田屋の遺跡をも憑吊せしに」という一節がある。さらに同じ碑文中の「曩にその旧宅の跡に建てられたる九烈士の碑の側に一碑を建て」という一節を考えあわせると,明治37年当時寺田屋の建物は存在しなかったと考えるのが妥当である。しかし,このことについては矛盾する資料もある(資料9の検討参照)。
この碑文は大浦兼武という政治家(明治37年当時逓信大臣)が書いたということになっている。へたくそな碑文で,和文でもあり,前途した「遺址」「遺跡」の区別はあまり厳密に考えないほうがよい。また大浦兼武撰坂本龍馬忠魂碑文(霊山京都護国神社内及寺田屋東隣空地)および『大浦兼武伝』(1921年博文館刊)にも「寺田屋の遺跡」と記されるが,この両者は資料7と情報源を一にするので,ここでは検討対象としない。
ちなみに『明治天皇紀』明治37 年8 月25 日条に,昭憲皇太后の奇夢のことを載せ,記事末尾に「今の家主を寺田伊助と曰ふ、業を廃し、大阪に移住す」と記す。また『大浦兼武伝』にも,寺田屋の遺縦を訪ねたあと「主婦を諭して再興を図らしめ,亦自ら応分の援助を与へんことを約す」と記す。いずれも情報源は大浦であろう。寺田屋の建物再建問題は別として,すくなくとも明治末には廃業していたようである。
寺田屋恩賜記念の碑【篆額】
山城國伏見町の寺田屋は昔より淀川船客の旅宿を業とせり其第六代の主人伊助の妻とせは元治元年九月三十五歳の時夫を喪ひたれとも引きつゝき家業を營み且性頗る義侠に富たりしかは當時勤王諸藩の浪士東奔西走せる際此家に宿りとせの扶けを受けたる者も少なからさりき文久二年四月薩摩の有馬新七氏始九烈士の王事に殉したりしも此家にして世に之を寺田屋騒動とよへり殊に土佐藩の坂本龍馬氏は常に此家に潜みて天下の大事を圖りたるにとせは厚く之を庇ひて其偉業を助けたりとそ惜いかな明治十年九月七日四十八歳にて身まかりぬ今茲に明治三十七年二月我邦の露國と戦端を開かむとするや某月六日の夜不思議にも皇后陛下相模國葉山の御用邸にて 御夢に坂本氏の忠魂を認めさせられけることありしか某後余公事を以て關西地方に出張し京都より奈良へ赴く途次五月六日伏見町の大黒寺に詣り九烈士の墳墓を展し又寺田屋の遺跡をも憑吊せしに其事を傳聞けりとて六月に至りとせの三女きぬの夫なる大坂の荒木英一とせの嗣子伊助か保存せる有馬氏の遺墨を携へて上京し余を訪ひて其際尚斬るものもありとて坂本氏よりとせに贈りたる數通の書翰を示せり余之を展観するに及ひて皇后陛下の 御夢を思合せ益々事の不思議なるに感したるまゝ陛下に拝謁して右の次第を上聞し坂本氏の書翰を ご覧に供し奉りたるに深く ご満足に 思召され又とせの義侠をも嘉みし給ひて八月二十五日皇后宮大夫子爵香川敬三氏を以て余に 御内旨を傳へられ且若干の 御賜ありしかは伊助之を拝戴せり實に格外の光榮と云ふへし伊助感泣の餘英一と相謀り曩に其舊宅の跡に建てられたる九烈士の碑の側に一碑を建て 恩賜の忝きを紀念せむとて余に文を乞へり余乃ち喜ひて事の顛末を記し淀川の清き流れと與に永く之を後の世に傳へしむ
明治三十七年十二月
逓信大臣從三位勲一等大浦兼武撰
御歌所參候正八位大口鯛二書
検討資料8 『伏見町誌』
「寺田屋遺址」という見出しのもと,「現在(昭和4年)の建物の東隣を遺址とす」と記す。寺田屋の建物がいちど消えたことを意味する。
寺田屋遺址 字南濱に在り,現在の建物の東隣を遺址とす,薩藩九烈士の殉難,阪本龍馬の遭難等,幕末志士の活舞臺たりき,薩藩九烈士遺蹟表,恩賜記念の碑等あり,
伏見町町役場編『御大禮記念京都府伏見町町誌』(1929年伏見町役場)575頁
検討資料9 西村天囚『紀行八種』
西村天囚(1865〜1924)は京都帝国大学講師をつとめた漢学者・ジャーナリスト。その紀行に,明治29年(1896)4月19日に寺田屋を訪問したことが記され,「寺田屋は,伏見の兵火に焚けしかば,家の跡を取払ひて,近き比此に銅碑を建てゝ,寺田屋は其西に建てけり」と,寺田屋が鳥羽伏見の戦で焼亡したことを明示している。
寺田屋は,伏見の兵火に焚けしかば,家の跡を取拂ひて,近き比此に銅碑を建てゝ,寺田屋は其西に建てけり,内に入りて見れば眇なる主人と,油ぎりたる大男と,互に古の事ども物語りつ,伏見殉難士傳と云ふ書を贈れり,頓て案内に從ひて東隣の銅碑を見るに,高さ八尺寸,碑面四尺二寸,横は五尺九寸にして,碑頭は三角,雲形を彫りて薩藩九烈士遺蹟表と篆題し,碑文は川田博士の撰に成れり,碑の前は砂を敷き,松一本を植ゑ,周圍は鐵もて瑞垣を築けり,
西村天囚『紀行八種』(1899年誠之堂刊)108頁 *国立国会図書館WEBサイトの近代デジタルライブラリーより
3 結語
以上検討した資料は,それぞれ来歴(ソース)が異なるもので,これらの資料が一致して矛盾なく指すところは,船宿寺田屋は,慶応4 年正月の鳥羽伏見の戦で伏見市街が罹災した時に焼けた。ということである。
以上










