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木戸翠香院の葬送

Category : 幾松 (いくまつ IKUMATSU)

明治19年4月14日水曜日の木戸松子葬儀を伝える日出新聞の記事。


【ここから続き】

明治19年4月14日水曜日日出新聞

木戸翠香院の葬送

贈正二位内閣顧問勲一等木戸孝允の未亡人翠香院貞秀尼は先頃胃病にて上來三十一組上樵木町十八番地の寄留所にて療養せられしが去る十一日午前四時遂に死去されしにつき直ちに宮内省をはじめ木戸公生前の知友同縣の方々へ電報にて訃音を告やりしがいづれも哀悼の返信來れりとまたこの事の叡聞に達したるより畏くもその死を悼思召せ給ひ御香華料として御金若干圓を賜はる旨内閣より電報もて達せられ皇后宮よりも御菓子ならびに香華料を賜はるよしにて昨日午後三時木屋町の宅より洛東靈山なる木戸公の墓所の北隣へ埋葬されしが喪主の侯爵木戸孝正君導師の本派本願寺の住職大谷光尊師が先例によりてこれを勤め會葬者は長州出身の紳士方及び京都府裁判所の官吏が一千餘人見送られたといふ

先ず「上來三十一組上樵木町十八番地の寄留所にて療養」だが、「三十一組」とはこの地域の番組の事、「上樵木町」は木屋町通りの二条御池間にある町名。「京都市町名変換史4」によると「明治元年(1868)『京都府布令書』に上樵木町とある。」とされている。

しかし「十八番地」という地番は存在しない。上樵木町の地番は三桁で491番から507番まで。百の数字を省略して書かれている事もあるが、しかし十八という数字は存在しない。十八番路地の可能性も考えたが、これは後で書く理由により無いと考えている。

寄留所」については文字通り「他の家や他の土地に身を寄せて住んでいたところ」となるのだが、明治19年4月であることから壬申戸籍によるもので90日以上寄留していた、つまり同所で療養していたとも考えられる。

もしこれが現在の幾松であったのなら、確かに同所で死去されたのだから終焉地ではある。しかし中村先生が書かれている「ついのすみか」「住居」「居住地」と呼べるのだろうか。後半に書かれている「木屋町の宅」をどう考えるのだろう。十八番地は「寄留所」と、「木屋町の宅」とは分けて書かれている事からも、十八番地はあくまで寄留所でしか無いと考えるのが自然では無いか。

では、木屋町の宅とはどこなのか?

木戸松子直筆の書簡が存在する。維新を語る会さんからコピーを頂いたが、そこには木屋町十三番と書かれている。又他の書簡では木屋町十三番路地とも書かれている。十八番地とは異なる住所である事は明らかである。

では、十三番路地とはどこなのか?これが確定していない。維新を語る会さんの調査で、地元の長老から「***の路地を十三番路地と呼んでいた」との証言は得ているが、現段階では証言以外に史料は見つかっていない。しかしその路地は幾松よりも南に位置する事から十八番路地は更に南となり、幾松である可能性は無いと考えている。

**番路地という呼び方をどこかで聞かれた記憶がある方もきっとおられるだろう。そう兵部大輔大村益次郎公遺址の碑文に十番路地と書かれている。

兵部大輔大村益次郎公遺址(フィールドミュージアム・いしぶみデータベース)

現在この碑があるのは「京料理さつき」の入口。幾松の2件北になる。さつきの地番が495、幾松の地番が497と498。さつきが十番路地なら3つ南の地番の幾松は十三番路地になるのでは無いか?と考える方もきっとおられるだろう。

しかし同碑の位置は何度も移動している。細かな移動は省略しても、以前は現在の左近太郎(地番494)前にあった。表通りが格子で覆われておりその中に存在した。格子を取り壊す際、現在の辺りに移動しただけである。

それでも幾松は497番地でもあるのだから…。

しかしそれも違う。格子の中より更に以前はもっと北にあったとの証言がある。と同時に碑文が間違っている可能性が極めて高い。昭和41年11月20日発行の「明治暗殺史録」の中では、公判記録を元に「三条木屋町筋二番路地の家だった」と書かれている。何故碑文が間違ったのかはわからないが、公判記録を元に書かれた「明治暗殺史録」が正しいのでは無いだろうか。

路地番号を確定する史料は見つかっていないが、概ね二条通りを起点としていると考えている。登記簿等からある程度までは推測できるが一番問題なのは消えた地番が存在する事。それは現在の御池通にあった家屋が戦時中の強制疎開(建物疎開)で無くなっているから路地はおろか家屋の存在すらわからなくなっている。

史料が見つからない現状では、地元の方への聞き取り調査しか町並みを探る事はできないんだろう。維新を語る会さんの更なる調査に期待したい。

いずれにしても幾松の居住地が現在の幾松であった可能性が極めて高いとするには、まだ時間が必要だと感じる。もちろんそれほどの史料・資料が発見されているのならその限りでは無いが、そうでない場合軽々に発言するのは如何なものかと感じてしまう。

又仮に幾松の居住地であったとしても、それをもって数々のウソを誤解としてしまう事は決して認められ無い。事実は事実。ウソはウソ。切り分けが必要であり、一緒にして擁護する必要は無い。

中村先生・幾松からの調査結果発表を楽しみにしている。

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