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よっぱ、酔っぱ。ただの酒飲みでよっぱなヲイラの戯言です。

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大村益次郎卿遭難碑

Category : 歴史

ちょこちょこ調べていてわかった事をメモ代わりに。


【ここから続き】

大村益次郎卿遭難碑

いしぶみデータベースでは建立年度は昭和9年とされている。まぁ碑文に「昭和九年七月」とあるからそうなんだろうけど。

しかし石田孝喜氏の著書「幕末維新京都史蹟辞典」では次のように書かれている。

30 大村益次郎寓居、遭難の跡

大村益次郎遭難の碑は、昭和十二年十月、歿後七十年慰霊祭執行の際のものである。

さてさて…。

昭和九年・昭和十二年の新聞を探したが記事は見つけられなかった。その後色々調べているとやっと判明。やっぱ昭和九年七月が正解。建立については昭和9年が徴兵令発布60年にあたる事から、陸軍第四師団・第十六師団が陸軍省以外からの一切の寄付を仰がず陸軍省の補助だけで建立したらしい。碑銘は陸軍大将林銑十郎の揮毫を受け、碑文は陸軍中将古城胤秀の撰による。

昭和九年七月三十一日午後三時半から除幕式が行なわれ

  • 深草藤森神社社司の修祓
  • 大村子爵による除幕
  • 第十六師団長渋谷伊之彦中将閣下の式辞
  • 小宴
  • 第四師団長伯爵寺内寿一中将閣下の挨拶
  • 午後四時終了

といった内容だったみたい。

兵部大輔大村益次郎公遺址建立者である山口鹿太郎陸軍少尉も尽力されたとの事。同碑については碑文にある「十番路次」がどこから出てきたのかは謎。当時の史料や大村の伝記には「二番路次」となっている。

遭難碑建立の経緯が書かれている資料では「二番路次」とされているが、旅寓場所が「長州藩控屋敷」であり建立当時の商店名が書かれている。昭和十四年毎日新聞から発行された「維新の史蹟」の記述を孫引きしたんだろうな。っで幾松がそれを真似たんだろうと推測する。

書かれている商店名は実在したし場所も特定できているんだけど、そこが「二番路次」であるのなら他の史料と整合性が無くなってくる。但し兵部大輔の碑が以前あった場所(それ以前は別の場所であったとの説もある)ではあるので、その点だけは合致してるんだが…。

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