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よっぱ、酔っぱ。ただの酒飲みでよっぱなヲイラの戯言です。

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長州(山口)藩邸

Category : 歴史

控屋敷がどうたら、参謀本部がどうたら色々書かれているけど、長州(山口)藩邸について調べた結果。


【ここから続き】

先ずは今現在の河原町御池の地図。

地図-1

河原町御池の北西は京都市役所。北東は京都ホテルオークラ。長州藩邸は東は木屋町(高瀬川)、西は河原町、北は押小路(長門の図子)、南は御池通りに囲まれた場所にあった。南北は四十四間、東西は六拾間二尺。一間を六尺、一尺を30.3cm として換算すれば、79.992≒80M、109.686≒110M となり、8800平米、約2600坪の広大な敷地となる。

地図-2

御池通は戦時中の強制疎開で拡幅されたんだが、元々は現在の北側歩道部分。当時は御池通では無く塗師屋の図子(明治の最初まで塗師屋町という町名であった為)であった。その南側は(現在の御池通車道も含め)加賀藩邸。御池大橋も当然未だ架設されていなく、木屋町通り東側には二条から三条まで建物が続いていた。

地図-3

御池通は河原町寺町間も通っておらず、河原町西側は建物が続きその西側は御土居地跡、そして妙満寺・本能寺の敷地となる。

地図-4

その河原町西側、御池通の突き当りと、一件挿んで北側の2箇所に山口藩邸が存在していた。北側の屋鋪は南北二拾二間五尺六寸・東西拾七間三尺六寸、南側の屋敷は南北二拾一間一尺八寸・東西拾五間三尺二寸。それぞれ約400坪、330坪の敷地。

地図-5

これだけの敷地がありながら、わざわざ木屋町通りの200坪にも満たない場所に控屋敷?を作るだろうか?仮に控屋敷・下屋敷と呼ばれるものが存在していたなら、この河原町の屋敷なんじゃ無いのかな。

確かに木屋町には現在の幾松の場所を含め長州藩が関係していた場所が数件存在する。しかしそれはたぶん常宿程度のものであり、長州屋敷・藩邸と呼べるものでは無い。

蛇足だけど、最初の地図に点線部分がある。これは町の境界線。今も昔とほぼ同じ。多くは通りや川の中央が境界となっている。通り・川の幅が多少変っていても大凡当時のまちなみが想像できる。だから山崎町と材木町を間違える事なんて通常は有り得ないんだけどな…。

コメント

羨ましい記事に感謝

京都では妙な連中が蔓延っているなか、本当に顕彰のために一生懸命なサイトに感謝です。
あの中村君は大阪茨木市にいた学生時代から知っていますが、今や素晴らしい?活躍ですね。
高知である学芸員に聞いた話では、原稿料クレイマーとか。
お土居をお土居堀と造語したことに、古い京都の友人も怒ってましたよ。
NPOを作って何やらやたらと建碑をしているそうな。
京都の歴史はどうなるのでありましょうや。
サイトの記事資料を活用させていいですか。

  • 2009/05/18(月) 22:08:52 |
  • URL |
  • 伊三 #-
  • [ 編集 ]

> サイトの記事資料を活用させていいですか。

どうぞお好きなように御使いください。
但し後から間違いに気付き訂正する場合もありますので、その際はご容赦ください。

  • 2009/05/18(月) 23:00:37 |
  • URL |
  • naka #upkHALyQ
  • [ 編集 ]

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