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よっぱ、酔っぱ。ただの酒飲みでよっぱなヲイラの戯言です。

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吉田屋・清輝楼・大和屋

Category : 歴史

メモ代わりの3発目。


【ここから続き】

これまで拙ブログでも吉田屋→清輝楼→大和屋って流れであると書いてきたけど、間違いである事が判明したので訂正します。

吉田屋と清輝楼は全く別でした。

吉田屋の主は森田喜兵衛→梅太郎で、三本木中之町の南の端で511番地と511番地の1 が地番。

清輝楼の主は神谷ゑい→みねで、三本木中之町の北から2軒目で501番地。

それぞれ後の湯浅氏の邸宅、大和屋になった場所です。

理由はわからないが(たぶん経営不振でしょ)森田梅太郎は吉田屋を廃業し、新たに月波楼を創業する。月波楼については調べた史料に「茨木屋の跡」という記述もあるが、吉田屋→茨木屋→月波楼では無く、吉田屋とは異なる場所だったように感じる。

吉田屋と清輝楼が同じ時期に存在したであろうことは草場船山日記からも伺い知る事ができる。吉田屋が存在した頃に、月に一度ぐらい何かしらの理由をつけて清輝楼で宴会してるもんな。しかも頼山陽なんかと勉強会と称しながら。(w

って事で、京都市が建立していた吉田屋の駒札も、場所が間違っていた事になる。

ついでに志賀直哉・谷崎潤一郎・吉井勇等 文豪の定宿として、又白樺派の会合が行なわれたとして有名な信楽楼は吉田屋の南隣。中之町の南の町内「南町515番地」で主は上京区三拾番組添年寄を勤めた谷出源右衛門→あい。この「あい」さんが与謝野晶子と親しかった事から多くの文豪・文人が利用したとかって話もある。

頼山陽の山紫水明どころは信楽楼から一件おいて南。

でもって全くの余談。

寺井萬次郎(史郎)さんの「京都史蹟めぐり」を見せたもらったんだけど、石田孝喜氏の「幕末維新史蹟辞典」って「京都史蹟めぐり」まるまるだわ…。書かれている内容だけでなく、使われている写真もそのままってのが多いし。そら典拠が明らかにされていないのも納得できる。

続けて書こうと思ったけど長くなるので、次は「平井収二郎の寓居」についてって事で。(w

コメント

大和屋について

母方の祖父が神谷という名字で、大和屋という旅館の当主であったとのことを伝え聞いています、維新に勤皇方の人々を匿ったりりしたとのことでしたが、老後逼塞してっ京都吉田にわび住まいし、その末の子が神谷友で私の母でした。その周辺事実を知りたいのですが。

生田さん、初めまして。

> 母方の祖父が神谷という名字で、大和屋という旅館の当主であったとのことを伝え聞いています、

とりあえずで書けば、本文でも書きましたが清輝楼の主は神谷ゑい→みねです。その後神谷茂太郎という名前が分かっていますが、茂太郎氏がみねさんの子供なのか孫なのか、あるいはそれ以外の関係であるのかはわかりません。

又大和屋は平井権七→邦男と引き継がれ、廃業時の主さんは知人の親しい方でしたので、何度かお会いした事があります。

普通で考えれば生田家に伝わった話が大和屋と清輝楼を間違えておられたか、あるいは「今大和屋になっている場所」といった話であったように思います。ただ清輝楼が何らかの事情で屋号を大和屋に変え、その後平井権七氏に売却された可能性も残ります。

手持ちの資料で確認すると明治30年5月31日に神谷茂太郎氏から平井権七氏に売却されています。

> その末の子が神谷友で私の母でした。

であれば茂太郎氏は生田さんのお祖父さん、あるいは大祖父さんでは無いでしょうか?過去帳等で確認できませんか?

神谷ゑいさんの御子孫であれば、当時のものが何か残っているのかもしれませんね。古写真や日記、領収書等、通常なら見過ごしてしまうようなものに、大切な情報が埋もれている場合も多々あります。

もし何かわかれば教えて頂けるとありがたいです。

  • 2009/10/29(木) 18:54:50 |
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