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よっぱ、酔っぱ。ただの酒飲みでよっぱなヲイラの戯言です。

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木戸松子の終焉地(大胆仮説w)

Category : 幾松 (いくまつ IKUMATSU)

木戸松子の終焉地について調べている途中経過。


【ここから続き】

松子・忠太郎が住んだ木屋町宅ってのは13番露地であると以前にも書いた。そこが現在のどこであるのかについては、まだ確証が無いので控えておく。

っで日出新聞の「上樵木町十八番地の寄留所にて療養せられしが去る十一日午前四時遂に死去され」にある十八番地がどこであるのかを調べていて、ひとつ大胆な仮説を立ててみる。

先ず十八番地についてはあれこれ探していて、やっとこさそれっぽい史料に辿り着いた。そこには「十八番月下亭」とある。これは直ぐに場所が特定できた。現在の木屋町御池北東角。ここで村井周造って方が長年月下亭を経営されていた。遅くとも明治16~7年ごろには既に月下亭が存在していたので、明治19年に木戸松子がここで療養してたってのはちと信じ難い。

では?と考えた時、ここって木屋町寮病院の直ぐ横じゃん!

療病院址

療病院ってのは現在の府立医科大学の前身。明治5年の9月15日から10月24日まで木屋町で仮オープンし、その後直ぐに粟田口の青蓮院に移る。療病院址の碑が建立されたのは、京都府立医科大学創立八十周年記念事業委員会の委員であり、胃腸科学講座の第2代教授であった川井銀之助氏が現地で聞き込み調査の上「この辺りだろう」と判断されたらしい。

その根拠となったのは、療病院設立に深くかかわった江馬榴園(えまりゅうえん)こと江馬権之助の思義館壬申日記の「木屋町二条十九番露地行當り」という記述。しかしこの記述は微妙に間違っている気がしてならない。ここが19番露地とすると、他の史料と食い違う部分が多々生まれてくる。微妙と書いたのは次の記述が正しいのでは?と感じるから。

「木屋町二条十九番の露地行當り」

はい、間違い探しです。(w

正解は"の"の一文字。

でもこの"の"の意味は大きい。19番露地と書くと、これは露地の番号になる。でも"の"を入れると19番にあった露地になるので、番号の意味が大きく違ってくる。19番にあった露地であるのなら北隣にある「18番月下亭」と繋がってくるじゃん。

っで、しかもですよ、この19番って場所が元々どんな場所かっていうと、目の前に高瀬川にかかる塗師屋橋(現在の御池小橋)があり、橋を渡るとそこは長州藩邸。でもって19番って場所は長州藩と密接な関係があったと考えられる場所。療病院がここに開設されたのも長州藩と密接な関係があった場所だからと推測する。

つう事で、木戸松子が療養のために寄留していた場所は、この19番であり療病院の跡にできた何らかの施設であったんじゃ無いかと考えておりまふ。日出新聞さんが18番を19番って単純に間違ったんじゃないかな?何しろ松子さん10日に亡くなったのに11日って間違ってるもん。(w

松子さんが亡くなられた後の時代も調べてみると、療病院の場所は旅宿・席貸しと思われる店になっていた。屋号は「花外楼」。そう明治8年2月の大阪会議で有名な大阪北浜の「花外楼」と同じ屋号で、北浜は木戸孝允が命名したと言われているあの「花外楼」。

何か関係あるのかな?と調べたが北浜花外楼の現在の女将は5代目の徳光正子さん。木屋町花外楼は「大澤タキ」だったので「関係ねえや…」と思っていたら、その後の木屋町花外楼の女将は「徳光トク」になっている。どっちも「徳光」さん。偶然としてもでき過ぎ。

まっ下衆の勘ぐりで言えば、「大澤タキ」さんが北浜店主の御妾さんで、生まれた「トク」さんは養子縁組してもらって「徳光トク」になったとかね…。

長州藩邸が後に勧業場になった頃、南向かいの加賀藩邸の場所は京都府第2代知事槇村正直の別邸になっていた。この19番って場所とは歩いて1分。木戸公からパシリ扱いされていた槇村正直の力が何か裏で色々動いてそう。(w

仮説のまとめ。

  • 木戸松子終焉の地は19番にあった京都療病院跡の何らかの施設。
  • 日出新聞の「18番」は間違い。
  • 19番は元々長州藩と密接な関係のあった場所。
  • 何らかの施設(寄留所)とそこへの寄留は、長州の力(長州力じゃ無いよ…)、特に槇村正直の力が関係していた。
  • その後そこで営業された「花外楼」は、北浜の花外楼と何らかの関係があった。

勝手な推測です。たまには適当な事書くのも良いかと。(w

あっ!「平井収二郎の寓居」書くの忘れてた…。orz

コメント

小五郎と幾松のからくり部屋の説明
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=gX3eIdr6Low
まるで忍者屋敷のような説明に何一つ疑問を思わない客のリアクションが不思議な感じ…

  • 2009/07/24(金) 03:07:38 |
  • URL |
  • 真実や如何に? #mQop/nM.
  • [ 編集 ]

どもです。ようつべの動画はアップされて直ぐに見てました。

お客さんが疑っていないのは仕方無いですし、ヲイラ的には騙されている現場を見ているようで、ちと心が痛みます。

それより大村益次郎・佐久間象山の写真を説明する際、「何れの方もですね、この近くで京都でのお住まいがございまして、この建物にも深く係りがあった人物として、このような形で飾らせて頂いております。」なんて説明してるのに呆れました。

大村益次郎は長州藩だから、幾松が桂小五郎寓居と主張するなら係りはあったのかもしれない。でも大村益次郎寓居はどこにあるんだ?

っで佐久間象山寓居は徒歩1分の距離だけど、どう係りがあったんだ?

もう何でもありだな…。www

「翠香院」を学習したのは誉めるけど、桂小五郎寓居址なのか桂小五郎・幾松寓居址なのか、翠香院寓居址なのか一体どれなんだろうね。

  • 2009/08/04(火) 00:48:26 |
  • URL |
  • naka #upkHALyQ
  • [ 編集 ]

路地の将来

 nakaさん 先日書き込みを頂きましたVinfoです。かなり時間が経ってしまいましたのでこちらに書き込みさせて頂きました。

 東京に住んでいる者にとっては、nakaさんのブログに書かれている木屋町通の路地や路地番号について中々立ち入れない奥深さを感じています。
 特に日本の都市は変化が激しいので、一昔前の街の姿も思い出すことができないほどに変わっていきます。かつてそこに住んでいた者ならば頭に入っていた路地の地図と番号が、今では分からなくなりつつあるというnakaさんの指摘を読んで、現在の日本の状況ならば、起こり得ることかと思いました。そういう点でも現在分かる事実を集めていくという地道な活動こそが重要だと信じています。

 私にとって街並みの変化を観察することは、趣味というよりは、仕事の一部分となっています。東京も関東大震災、東京大空襲そしてバブル期の地上げ騒動とかなり古くから伝わってきたものを破壊してきましたが、まだまだ下町に行くと昔ながらの街並みに出会うことができます。

 このような町並みの建物は、何もいじらなければ、現在の建築基準法から見て問題点があっても既存不適格ということで、そのまま使用することができます。しかし「現代的な」生活をしようと思うと、たちまち町並みの破壊が始まります。ご存知のことかもしれませんが、建物の新築あるいは大規模な改修を行うとすると、その新たな建物は建築基準法に適法であることが要求されます。たとえ新築した部分が適法であっても、元の建物が残っていれば、それを含めて適法であることが必要となります。
 古くからの町並みを残していこうとする人々にとって、建築基準法の元で、この路地や長屋という住まい方を継続することが、特に困難ものとなっています。「建物は前面道路に面しなければならない」という事項が、ネックになります。道路とは一般的に4メートル以上の幅員があり、官庁によって定められた道を指し、路地のような幅員も少なく、私的なものは前面道路に成りえない訳です。これは災害時に、避難路の確保や、救助、消防活動のために必要とされています。阪神大震災や雑居ビルでの火災を見れば、この法律の必要性は首肯せざるを得ません。

 そういうことで、通りに面した前面の立替えは容易でも、路地の奥の立替えはほぼ不可能になってしまう。そこで路地に面した一帯を共同で開発することや連担建築物設計制度を使用して段階的に立て替えていくことが必要となっていきます。しかしそれらによって生まれ変わった町並みが以前と同じものであるかと言うと、どうでしょうか?
 先斗町や木屋町通の路地は90センチメートル、細ければ60センチメートルという所ではないでしょうか。上記の手法で新しく出来上がった「路地」は3メートルから4メートルになってしまう。これでは路地に面した暮らし方とは言えないでしょう。

 長々書きましたが、結論は現在のところ手を付けることができず、今まで通り使っていく他に有効な方法がないということです。しかも地主さんの代替わりのときに、相続税に絡んで土地の一部転売や建物の更新が起こる。だから現状を維持することすら困難な事業となっている。それが木屋町通の現在の姿だと思います。この地域の地価が他と比べて高いことが幸いなのかどうかは分かりません。ただ、そのことが他よりも変化を早くする原因となっているはずです。

> 東京に住んでいる者にとっては、nakaさんのブログに書かれている木屋町通の路地や路地番号について中々立ち入れない奥深さを感じています。
> そういう点でも現在分かる事実を集めていくという地道な活動こそが重要だと信じています。

古い資料等も何かのおりに廃棄される事が良くあります。歴史的に非常に価値あるものでも、興味がなければ紙くずです。実際調べている木屋町辺りでもほとんど現存していないようですし、数年前見つかった大量の資料(たぶんかなり貴重なもの)も、借り受けた方が紛失したとかで行方がわかりません。きっと紛失では無く盗まれたんだと思っていますが。

ですので多くの場合は聞き取り調査になります。しかし古くから住んでおられる方も少なくなっているようなので、あまり時間が無いと感じています。

一般の歴史ファンの方が間違った情報を信じてしまうのは仕方無いですし、遠方の方が調査されることも困難でしょう。ですから余計に京都に住む人間として正しい情報を調べ発信したいと感じていますし、京都に暮らしながら営利目的の為に歴史捏造される事を認める気にはなれません。

東京の方とメールでやり取りしている中で、「じゃぁ時間のある時に一度調べて見ます。」として調べたのが中井弘寓居でした。
http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-564.html

> 私にとって街並みの変化を観察することは、趣味というよりは、仕事の一部分となっています。

ご職業にされていたんですね。
現在京都では「町家」を保存するために行政が動いています。町家といっても本来の京町家では無く、戦前に立てられた軸組構造の木造家屋全般を「町家」と位置付けています。

京町家の多くは町家ブームによる他都市からの資本流入で商店に変ってきています。しかし内装だけで無く外観以外は大きな改装が行われる為、既に京町家としての価値が失われているものも多いようです。

又新景観条例により町並み保存が行われようとしていますが、グランドビジョンが提示されていないため、継ぎ接ぎだらけの政策のように感じます。

> 先斗町や木屋町通の路地は90センチメートル、細ければ60センチメートルという所ではないでしょうか。

一間路地が多いですが確かにそれ以下のところや2間ぐらいあるところも存在します。

現在路地に見えるところでも果たして路地であったのかは微妙ですし、本間精一郎で有名な瓢箪路地のように閉鎖されたところもあります。

> この地域の地価が他と比べて高いことが幸いなのかどうかは分かりません。ただ、そのことが他よりも変化を早くする原因となっているはずです。

高いとすれば動かない事が一番の要因のようです。実売価格はほぼ言い値のようですし、目の飛び出るような金額でも東京資本の方で探しておられる方は多いと聞きます。地上は年々変っているようですが、地面自体はほとんど動いていないようですね。調査過程で地権者についても相当調べましたが、近年大きな動きは少ないようです。

  • 2009/09/27(日) 21:20:16 |
  • URL |
  • naka #upkHALyQ
  • [ 編集 ]

うわっ!
コメントで紹介されている動画、「この動画は、 株式会社幾松 さんによる著作権侵害の申し立てにより削除されました。 」ですって。

著作権侵害ね…。

  • 2009/09/28(月) 00:25:54 |
  • URL |
  • naka #upkHALyQ
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