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よっぱ、酔っぱ。ただの酒飲みでよっぱなヲイラの戯言です。

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又「此付近」か…。

Category : 歴史

今日新しい碑が建立された。


【ここから続き】

碑とは「新選組最後の洛中屋敷跡」で、新撰組不動堂屯所を表すもの。

建立場所・建立者はいずれも「ハトヤ瑞鳳閣」だが、中村武生氏が解説文を担当している事から、氏の働きかけで同地に建立される事になったのだろう。

不動堂屯所については2003年6月、リーガロイヤルホテル前に霊山歴史館の木村幸比古氏監修による碑・解説板が設置されている。今回の中村氏による建立は、真っ向から木村氏の説を否定したものである事は確か。

ただし木村氏の説については、地元地域の研究者や維新を語る会の調査でも疑わしいとされてきた。

とりあえず中村氏のブログに記された情報を紹介する。(念のため魚拓。下記引用についてはマークアップを変更しています。)

歴史と地理な日々(新版)

【除幕式】新選組最期の洛中屋敷跡標石

監修:

中村 武生(京都女子大学非常勤講師・NPO法人京都歴史地理同考会理事長)

建碑場所:

京都市下京区西洞院塩小路下ル南不動堂町802 ハトヤ瑞鳳閣前

碑文

  • (表)此付近 新選組最後の洛中屋敷跡
  • (右)旧平安京左京八条二坊十五町
  • (左)旧山城国葛野郡不動堂村
  • (裏)二〇〇九年一〇月 ハトヤ瑞鳳閣建之

(解説文)

当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町にあたります。

中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯でした。が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立しました。

しかし豊臣期に構築された、京都全域を囲い込む惣構(城壁・環濠)「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱いを受けました。

幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。

これにあわせての新屋敷建設です。いわば最盛期の邸宅といえます。

近藤勇の甥で隊士だった宮川信吉の書翰によれば、同年6月15日に入居しています。

位置については、同書翰に「七条通り下ル」、幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません。

同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で当屋敷を離れます。

翌年1月の鳥羽伏見戦争の敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩みます。

当屋敷は維持されず早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。
 が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に編入されます。

当地付近は、地域史上はじめて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至ります。

歴史地理史学者 中村武生

先ず「七条堀川下ル」としているのに七条西洞院に建立する事がわからない。堀川と西洞院の違いが「当地付近」「此付近」の範疇なのかどうかは疑問が残る。もっとも四条の裏通りを六角で「此付近」とするのだから、それよりは狭い範囲である事は確か。

しかし「厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません。」としながら「当地付近」「此付近」で碑を建立するのは自己矛盾のように感じてしまう。

では不動堂屯所はどこであったのか?

先に書いた地元地域の研究者や維新を語る会の調査では現在の堀川通上との結論が出ているようだ。詳細については維新を語る会さんに資料提供をお願いしているが、ちびくまの新選組さんが「不動堂屯所はどこか」で書かれている内容と、ほぼ同じだった気がする。もしかしたらちびくまの新選組さんは維新を語る会さんと一緒に調査された方なのかもしれない。

不動堂屯所周辺地図

川崎先生が昔暮らしておられたのが安寧小学校の前であった事から、地元地域の方と一緒に調査をされたと聞いている。

上記サイト内で「学校が大正15年に買収した北西角の御方紺屋町の土地百四十二坪六勺は、近藤勇妾宅があったところ(現在の安寧小学校の前の中央分離帯あたり)であり、前所有者が西本願寺執行の小田尊順であった。」とある近藤勇妾宅は、移転前の小学校で用務員室として利用されていたらしい。

ヲイラとしては中村氏の調査結果より遥かに信憑性が高いと感じる。

何故なら第二次大戦中の強制疎開によって町の様子が大きく変わってしまった地域は多々あるが、資料が存在しなくてもまだ疎開前のまちなみを知っておられる方は地域におられる。もちろん中村氏が生まれる前の話であるので、そのまちなみに何らかのヒントが残されているとすれば、現地での聞き取り調査を行うしか無い。又一般には公開されていない資料等が地域に残っている場合も多く、それも現地で調査しない限りは見つける事ができない。

いずれも突然「ごめんやす」で対応してもらえるほど簡単な事では無い。資料の中にはそれぞれのご先祖さんに関する事も含まれている可能性があるから、突然やってきた人に何でもかんでも見せるわけにはいかないだろう。となれば年月をかけて足繁く通うか、地域の方を介して訪ねるかしか無い。

公開されている史料だけに頼らず地域の一員として現地で調査されたのが、地元地域の研究者や維新を語る会さんである事から、信憑性が高いと感じる。

厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。」としながら「此付近」という便利な言葉で建立を続ける姿勢には疑問を感じるし、一部で囁かれている「売名行為として建立しているに過ぎない。」との意見にも耳を傾けざるを得ない。

もしも「此付近」で建立する事を良しとするなら、ヲイラが現在調査している木屋町辺りは、すべての家前に何らかの碑を建立できる。場所によれば複数建立する事も可能だし。

もっとも「此付近」なんて便利な言葉を使わなくても、きっちりとした史料で確認できている場所が大半なんだけどね。

仮にスポンサーがいてすべての家前に建立可能になったとしても、碑を乱立させる事により碑の価値を下げる可能性もあるから、そんな状態が果たして良いのか?って事は考える必要がある。

何でもかんでも「此付近」で建立せず、もう少し時間をかけ絞り込んでから建立すれば良いのにね。

コメント

こんにちは!
新撰組不動堂屯所の正確な場所については、
「慶応四年新撰組近藤勇始末」「慶応四年新撰組隊士伝」著者のあさくらゆうさんが、かなり丹念な調査をされているようですよ。

> あさくらゆうさんが、かなり丹念な調査をされているようですよ。

あさくらさんのブログは何度か拝見しております。
ただ地元に伝わっていた近藤勇妾宅についてはご存知では無いようですし、仮にご存知であった場合どう解釈されるかですね。同地域は川崎先生が幼少時お住まいになっていた地域ですので、史料としては残っていない部分も含め地域住民だからできる調査をされたようです。両氏の調査から新たな発見があると良いですね。

  • 2010/01/14(木) 09:53:33 |
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  • naka #upkHALyQ
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