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よっぱ、酔っぱ。ただの酒飲みでよっぱなヲイラの戯言です。

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佐久間象山遭難ノ地 古写真の検証。

Category : 歴史

「佐久間象山遭難ノ地 木屋町二条下ル」という古写真について。


【ここから続き】

最近メールで質問されることが多いので、正しい情報を書いときます。

佐久間象山遭難ノ地

上記写真だけど実は遭難ノ地は全く写っていない。写真は現在のこの場所になる。

現在地

左端にある家屋の屋根・一階庇部分の形状を比べてもらえばわかると思う。

屋根一階庇

一軒おいて南にある路地入り口も、庇部分は改築されているがほとんど昔のまま。

中央路地入り口

さらに南にある路地入り口については、庇部分もたぶん昔のままだと思う。

右側路地入り口

この路地奥にあるのが現在幾松がある場所の前地権者であった新三浦さん。初代白井凌三氏は木屋町三条にある「佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約壱丁」の道しるべを自費で建立された方。

物干し台

特徴ある三階建ての建物は、現在コインパークとなっている場所にあった「大野屋」という旅館。左側にある物干し台は新三浦さんの前の地権者であった国の家さん。ここが森光子の生家(実際は生家では無いようだが)で、森光子は幼少時、毎日この物干し台に上がって歌の練習をしていたらしい。

っで何故遭難ノ地が写っていないかと言うと次の地図を見て欲しい。

地図

古写真の撮影場所と写真に写っている範囲を赤枠の透過色で示した。遭難碑は左下。遭難地は2説あって、遭難碑建立時の日の出新聞では「吉冨前」となっている。又遭難碑にも「碑の東側」と記されている。これはいずれも建立に際しての現地聞き取り調査を行った際、象山絶命を目撃した生き証人の証言を基にしている。それが「A 地点」。だけど、その生き証人さんの子孫には「B 地点と証言した」と伝わっているらしい。

まっ大差は無いんだろうけど、仮に「B 地点」であったとしても、当時誰もが知っていたであろう「吉冨前」とするほうが分かり易いだろうし、建立場所が廣誠院の敷地南端だからそうしたのかもしれない。敷地の真ん中(現在地より北側)に建立しようとすると、植冶作の庭を改修する必要があったのかも。

って事で「A 地点」「B 地点」共に古写真には写っていない。だから古写真は「佐久間象山遭難ノ地」の写真では無いって事になる。

では何故この写真を「佐久間象山遭難ノ地」としたのか?ここからは全くの推測でしか無いんだけど、京都維新史蹟(京都市教育会編纂)佐久間象山と其遭難地(24)に次のような記述がある。

京都維新史蹟(京都市教育会編纂

佐久間象山と其遭難地(24)

七月十一日象山「もちや」旅館を出て西三本木の山階宮晃親王邸へ赴かんと、栗毛に跨り三條小橋を渡り木屋町を北へ向かひしに、鈴田と云へる炭屋の片蔭に二人の武士話合ひ居たるが、象山は一向平気に通過せんとせしに、彼の二人抜手も見せず左右より斬り付け、先づ馬を斬りたれば象山堪らず地上に落馬し、起上らんとする所を双方より斬り付け、刀を抜くの暇なく肩先深く斬下げられ、其場に打殪れたり。相手は、隠岐の士松浦虎次郎、熊本の士河上謙齋と云ふ。

これを読む限りでは「鈴田と云へる炭屋」の前で「落馬し」「其場に打殪れたり」って事になる。だから遭難碑近くの「炭屋」を探して「ここだ!」って事になったんじゃないかと…。

撮影時期はわからないけど、二階の窓にガラスがはまっているし、大八車の後に自転車もあるから、そんなに古い時代でも無い気がする。といっても大正から昭和初期ぐらいなんだろうけど。

コメント

象山遭難の地、
綺麗に複写できていますね。
カメラはかなりお高いのを使われてるのでしょか(笑)
自分も時々複写しますがどうも綺麗にいきません(汗)

  • 2009/12/09(水) 20:23:24 |
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今の時代、わざわざカメラを使わなくても便利なツールは山ほどあるわけで。

  • 2009/12/10(木) 15:52:15 |
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便利なツールですか!
カメラ無くても良いわけですね!
イヤー、自分は年寄りで古いものしか解らなくて、
煩い質問をしてしまいました、許してください。

  • 2009/12/13(日) 22:26:23 |
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『京都維新史跡寫眞帖』

尊攘堂史料 『京都維新史跡寫眞帖』にある写真をいつ、誰が撮影したかといえば、これは大正五年十一月十七日に京都新京極蛸薬師東の写真館「高木舗」の小谷荘治郎が坂本彌太郎、中岡、中岡信、清岡猛虎、川田瑞穂の五人を同行して撮影しています。

であれば、ヲイラの推測は間違っていたことになりますね。遭難碑建立の経緯についてはかなり調べましたので、目撃者の証言は確かだと思っています。小谷氏がどんな史料を元に古写真の地を遭難地と判断されたのか興味があります。

  • 2010/01/14(木) 09:52:06 |
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いえいえ

この推論は呼んでいて僕も正しいと思いました。
小谷荘治郎は単にこの辺ということで撮影したのではないでしょうか?

  • 2010/01/14(木) 10:07:29 |
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  • 森重和雄 #-
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いえいえ(誤植訂正)

この推論は読んでいて僕も正しいと思いました。
小谷荘治郎は単にこの辺ということで撮影したのではないでしょうか?

  • 2010/01/14(木) 13:51:30 |
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  • 森重和雄 #-
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写真の撮影日

写真の撮影日は、大正五年十一月十七日で確かです。

遭難碑は大正四年十月三十日竣成、三十一日午後二時より除幕式でしたので、撮影はその一年後になるのですね。とすれば建立の経緯等も簡単にわかるでしょうに、少々荒っぽい場所選定だったように感じます。

  • 2010/01/16(土) 19:17:37 |
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中川忠三郎が撮影した写真の行方について

実は最初は中川忠三郎が撮影した写真の行方について調べていたのですが、中川忠三郎氏の件は、
『日本世相百年史』
(東京日日新聞社・サン写真新聞社、昭和30年)という本の「編者の言葉」に下記の記述がありました。

「写真の部は山田米吉氏の蒐集にかゝるもの、および同氏が継承された京都の故中川忠三郎氏の旧蔵資料を主として利用したので、いちじるしく豊富かつ優秀なものになり、従来出版のものに見られなかった珍しいものが多くふくまれている。」

それと高知県の「中城文庫」に中川忠三郎が撮影した「近江屋内部」の写真現物が残されていまして、その写真台紙裏側に、大正五年十一月十七日に京都新京極蛸薬師東の写真館「高木舗」の小谷荘治郎が坂本彌太郎、中岡、中岡信、清岡猛虎、川田瑞穂の五人を同行して撮影したときのことが墨書きで記述されていました。

  • 2010/01/18(月) 11:19:41 |
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  • 森重和雄 #-
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「佐久間象山遭難ノ地」についてさらに精査するならば、坂本彌太郎、中岡、中岡信、清岡猛虎、川田瑞穂の五人が何か書き残したものか、逸話か、何かも調べる必要がありそうですね。

  • 2010/01/18(月) 11:24:20 |
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  • 森重和雄 #-
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遭難之地の定義が微妙ですが、遭難之碑建立に際しては絶命の地を遭難之地としています。絶命の地については現地での聞き取り調査で得た目撃者の証言を基に判断されました。目撃者の証言とは平たく言えば「路上で血を流し死んだ・死んでいた佐久間象山を目撃した」との内容であり、旅行中等知らない土地での話では無く自宅付近での出来事であるため、疑う要素が無いと感じます。

当日の佐久間象山の行動や経路等については諸説あり、襲撃自体も200M ほどの距離の中で数回行われたであろう事から、遭難の定義によっては絶命の地と異なる場合もあります。

目撃者は碑除幕式に女性として唯一招待され、当日の記念写真にも映っています。同写真は長野の象山記念館に貸し出され、現在は複写が同館で展示されているようです。

  • 2010/01/18(月) 17:24:27 |
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もうひとつ

昨夜、もうひとつ思いついたのは、この写真が掲載されている 『京都維新史跡寫眞帖』の写真の説明は誰かが書きこんだ文字です。
従って写真の撮影意図とは違うキャプションの可能性もありますね。
つまり写真撮影者は「なんとか」と撮影したつもりだけど、写真の説明書きをした人物はこの写真を観て「佐久間象山遭難ノ地」と考えたという仮説です。
というのもこの『京都維新史跡寫眞帖』には写真説明のない写真も一枚ありました。

この写真は

この写真は実は「大村益次郎寓居、遭難の跡」の写真ではないでしょうか。

なるほど。

お送り頂いた画像はこちらと同じものですね。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/kanren/doc/big/3765083.html

これが「大村益次郎遭難の跡」である可能性は極めて低いというか、ヲイラとしては違うと感じます。
というのは大村益次郎遭難之地は「木屋町三条上るの旅宿」とされています。三条上るとありますが実際は二条三条間の意味でしょう。又信頼できる史料では「二番路地」ともあります。

上記写真が仮に木屋町通りであるのなら、先ず画像左側に高瀬川が存在しない。フレームから外れた部分が高瀬川or濱地であるのなら、先に民家が存在しています。又、撮影時期が先の写真と同じ大正五年頃であるのなら、既に京都電気鉄道が開通(明治28年)しており、線路が写っていません。

それ以外にも違うとする理由はいくつかありますが、いずれにしても遭難之地とするには無理があると思います。

尚、木屋町通りはあくまで遭難之地であり「大村益次郎寓居」と呼べるものは存在しません。

「写真の撮影意図とは違うキャプションの可能性」を考えると、「佐久間象山遭難ノ地」の写真は「大村益次郎遭難之地」として撮影されたのかもしれません。仮に「大村益次郎遭難之地」とすれば、「佐久間象山遭難ノ地」と同じぐらいの誤差の範囲だと推測します。

  • 2010/01/19(火) 15:51:52 |
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「大村益次郎遭難之地」

確証はないのですが、本当は「大村益次郎遭難之地」として撮影されたような気がしますね。

  • 2010/01/21(木) 14:16:43 |
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  • 森重和雄 #-
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遭難碑近くの「炭屋」

やはり、nakaさんの「遭難碑近くの「炭屋」を探して「ここだ!」って事になったんじゃないかと…。」という仮説の方があたっていますね。

  • 2010/01/21(木) 14:51:50 |
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  • 森重和雄 #-
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写真の撮影意図について何か記録って無いのですかね。

  • 2010/01/23(土) 20:07:05 |
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うーん?

写真の撮影意図についての記録は僕もわからないです。
ちょっと調べてみますね。

何かわかれば是非教えてください。

  • 2010/02/01(月) 16:30:41 |
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