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よっぱ、酔っぱ。ただの酒飲みでよっぱなヲイラの戯言です。

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お龍の写真。

Category : 歴史

年末から様々な番組でお龍の写真が紹介されている。


【ここから続き】

真偽のほどはわからないけど、井口家から発見された古写真に「お竜」と鉛筆書きされている事が本物の可能性と紹介されているようなので、鉛筆書きについて。何時、誰の手によって鉛筆書きがされたんでしょうね。

以下は京都維新を語る会 会報 2009年12月01日発行 第90号からの転載です。


「龍馬が愛した女」より 記載・川崎 資料提供・大西荘三郎

次の「NHK歴史へ招待」では龍馬の正妻として知られている、お龍の出会いか始まり、新婚旅行のエピソードや別れまでの物語でありました。しかしながら彼女の顔については、最近では井口家のアルバムから発見されたとして真実らしく公開されている。

これまでにも、当会会報では三号・三十八号・七十五号の三度にわたり大西が発表をしていますが、最初に発見されたとされる、故西尾秋風(本名十四男)氏の新聞掲載を発表します。

今から二十七年前の一九八二年高知新聞記事では、「お龍かと思えたのであるが、裏面に記名なく、空しく放置されていた」とあります。

西尾氏は井口家アルバムを見られた時には「何も記載されていなかった」と判断をされおり これを宮地佐一郎氏に寺田屋「お登勢」として紹介されているのです。(龍馬写真集初版)

このアルバムが京都国立博物館に寄贈されており、現在では鉛筆で「お竜」と明確に書かれているではありませんか。如何にしたことでしょう……。

お龍説を全くの否定をしていませんが、この様な経過であったことを掲載して、この読者方の判断の一端にしていただければ幸いと思います。

高知新聞 昭和57年(1982年)12月22日(水曜日)

若き日のお竜の写真発見

来る一月十五日は、坂本竜馬の妻お竜(明治八年に再婚して西村つると改名)の七十八回忌である。この日を目前にして、彼女の若き日の艶姿写真を発見したのである。

だいたいお竜の写真は、明治三十一、二年ごろに撮した六十歳ぐらいのもの一枚きりということになっていた。ところが今回新発見のものは、近江屋(竜馬が遭難死した寄宿先)のご子孫井口新助氏所蔵のアルバムから撮影させていただいたものである。他のいわゆる維新の志士と称せられる人物の肖像写真と一緒に保存されているため、これらの志士たちとも有縁の女性と推察され、あるいは若き日の寺田屋お登勢か、お竜かとも思えたのであるが、裏面に記名がなく、空しく放置されていた。

さて最近、以外な事実が判明した。お竜ことー西村つる女の子孫が京都で健在だったのである。京都市下京区に住む西村兵造氏は、お竜の第二の夫(西村松兵衛)の兄兵蔵の直系で、その祖母ふさ77自(明治五年生まれ)は兵蔵の二女で、お竜の養女となっていた。同氏は『この写真に見覚えがある。祖母の所持品で、小学二、三年ごろ、たしかに手にとった記憶がある…』と言う。この写真はバックの特色から、明治初年、東京浅草で開業の内田九一スタンドであることが判明、お竜は明治四ー七年ごろ(三十一ー四歳)東京にいた形跡がある。この写真は、まさに本邦最初の見合い写真かもしれない……。

【西尾秋風=60歳・立命館史学会員】

コメント

nakaさん、あけましておめでとうございます。旧年は池田屋事件のプレートにつき不確かな情報を提供してしまいまして、誠に申し訳ありませんでした。本年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。

>鉛筆書きについて。何時、誰の手によって鉛筆書きがされたんでしょうね。
引用されている「高知新聞 昭和57年(1982年)12月22日(水曜日)」付にみえる「井口新助氏所蔵のアルバム」とは、田中弘から井口家に預けられたものなのだそうで、「お竜」との鉛筆書きも預けた田中弘ないし預かった近江屋新助によって書かれたものと今では推測されているみたいです。

このアルバムにおさめられた人物群は田中弘と近江屋新助にとって共通の知人となる人々(海援隊士ほか)も多く、取り分けくだん写真が掲載人物中唯一の女性としておさめられている点をあわせ鑑みても、記名にしたがって素直にお龍と観ておくのが一番妥当だろうとのこと。

この写真にそえられた記名には、鉛筆書きのほかに墨書きにのもあるみたいなので、全部が全部おなじ時期に書かれたものとは私も思っていませんでしたが、可能性として高知県立坂本龍馬記念館の依頼によるこんな調査結果(http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~ryoma/oryou.htm)もあるみたいなので、私的には「断定はしないけどお龍さん説でまぁいいんじゃない」程度には思ってました(笑)。

つまるところ当記事は、昭和57年の発見時点では無記名だった写真に、どこかの誰かがお龍説を目にして「お竜」と写真へ筆記したのを、現在ではその時期不明の記名自体が手伝ってお龍説を補完している、だとしたらその現状は危うい、という趣旨と御見受けいたします。

引用の「(龍馬写真集初版)」という文字に惹かれ、手もとの『坂本龍馬写真集』(一九九八年六月十日 第八刷)版ひらきましたがコチラには
「451、若き日のお龍
 京都井口家アルバムより発見された。お龍の後の夫、西村松兵衛の末裔西村兵造氏の証言によりお龍と推定される写真である(「坂本龍馬写真集余聞」毎日新聞五七年十二月七日夕刊に考証を掲載)」
と載ってました。

たしかに記名された時期があやしいですね。

  • 2010/01/04(月) 11:07:26 |
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  • 松裕堂 #6eUroIng
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Re: タイトルなし

松裕堂さん。
こちらこそ宜しくお願いいたします。
池田屋事件のプレートについては、情報提供頂いただけでありがたかったです。東京龍馬会さんの掲示板で報告いたしましたが、あれ以上書くと新たな問題を起こしそうなので控えました。

> つまるところ当記事は、昭和57年の発見時点では無記名だった写真に、どこかの誰かがお龍説を目にして「お竜」と写真へ筆記したのを、現在ではその時期不明の記名自体が手伝ってお龍説を補完している、だとしたらその現状は危うい、という趣旨と御見受けいたします。

概ねそうだと思います。
付け加えれば危うい状態には触れず垂れ流す報道にも問題を感じます。

科警研の調査結果についても結論はあくまで「同一人の可能性がある」ですので、これは可能性ゼロを立証できない限り「可能性がある」なんだとヲイラは理解しています。同時に古写真研究家の方々からは「過去科警研の調査結果は多くの間違いがあった。今回も信用に足らない」との意見がある事も理解しています。まぁ説は色々あれば良いと思いますし、とんでも無い説でも読むぶんには面白いですし。w

ただ情報が一人歩きして「科警研が同一人物と断定した」とか「若き日のお龍である証拠に『お竜』と記名されている」といった状態はどうかな?と感じ、今回維新を語る会さんの会報を転載させて頂きました。

次にアップ予定の池田屋の古写真なんかも情報が一人歩きしている典型です。

宮地佐一郎氏と西尾秋風氏との関係ですが、宮地氏は京都での龍馬に関する検証は西尾氏に全幅の信頼を寄せておられたようなので、西尾氏の調査結果についてはそのまま採用される事が多かったと聞いています。

> たしかに記名された時期があやしいですね。

少なくとも昭和57年の発見時には記名されていなかった事は事実ですので、同写真を若き日のお龍と判断する根拠は、科警研の調査結果だけなんじゃ無いでしょうか。

井桜さん所蔵の半身像写真って、入手時期・経路は明らかにされているんでしたっけ?

  • 2010/01/04(月) 12:33:13 |
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>井桜さん所蔵の半身像写真って、入手時期・経路は明らかにされているんでしたっけ?
「何かに載ってたとは思うけどなんだっけ?」と数分心当たりを探してみましたところ、『歴史読本』二〇〇二年二月号に宮川禎一氏の論文が載ってるのを見つけました。長いですが以下に引用します。
-------------------
 井口家アルバム[松裕堂注:本記事で話題になっているアルバムの事]を井口様から博物館[松裕堂注:京都国立博物館]がお預かりしたのは平成十二年の十月のことであり、その内容について調べようと古写真関係の書物を渉猟していた。そんな十二月の中旬のある日、京都河原町の大型書店で偶然手に取った井桜直美著『セピア色の肖像』(朝日ソノラマ)の中に例の女性[松裕堂注:若きのお龍とされる立像写真]の別写真を見つけて仰天したのである。翌週すぐさま手紙で著者へ問いあわせした。
 写真所蔵者の井桜氏は東京在住で古写真を研究収集されておられる。写真は近年古書市において購入されたものであり、その出所は不明であるという。井桜氏はこの女性がおりょうの可能性のあることをまったく知らずにその本に掲載したという。
[一段落分略]
 座る女性は東京浅草の内田九一写真館で撮影されたものであることは裏面のラベルから分かる。一方、井口家アルバムの女性写真には内田九一撮影をしめすこのような裏文様はない。着物の柄や髪型から井口家アルバムの立姿写真と同日同時に撮影されたことは明白である。そして最も重要なことはその写真裏面の右下に墨で「たつ」と記されいることである。この「たつ」を「おりょう」と別人とする根拠にもできるが、龍(竜)は「たつ」と読むこともできる。すなわちおりょうである証拠かも知れないのである。
-------------------

また同論文にはお龍さんと推定される井口家アルバムの立像写真について
-------------------
寄贈者の井口新助様に直接確かめたところ、このアルバムを見た昭和初めの頃にはすでに「お竜」と記してあったという。その後に誰かが書き加えたことはないし、それ以前には祖父新之助の管理が厳しかったので誰かが手を入れたとは考えられないという。
-------------------
との記述もありました。

ゆえに宮川氏は井口家のアルバムとお龍説について
-------------------
アルバムの作成者も名前を書き込んだのも中井弘である蓋然性が高い。そして井口新助が譲り受けたのちも書き込まれた「お竜」の文字を訂正しなかったことからして、「お竜」であることを中井弘・井口新助両名が認めていたということになる。
-------------------
としています。

なんか本気で議論すると水掛論になりそうですね、コレ。

  • 2010/01/05(火) 10:45:10 |
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  • 松裕堂 #6eUroIng
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Re: タイトルなし

ありがとうございます。

> なんか本気で議論すると水掛論になりそうですね、コレ。

まっ、そうでしょうね。w

当時の事をご存知な方に色々訊いてみましたが、写真の確認は西尾氏一人では無く、宮地氏とカメラマンが同席されたようです。その上で「このアルバムを見た昭和初めの頃にはすでに「お竜」と記してあった」という井口氏の証言が事実とすれば、何故西尾氏が「裏面に記名がなく、空しく放置されていた。」と書かれたのか、又宮地氏も事実と異なる西尾氏の証言を認められたのか、そして根拠となるであろう記名部分を何故カメラマンが撮影しなかったのかが大きな疑問です。目の前にある記名を無いとした理由がヲイラには見つかりません。

ですのでヲイラ的には西尾氏の記述が事実であり、井口氏の証言は単に記憶間違いか、あるいは発見後かなりの論争に発展した事から、新たな論争になる事を避ける為そのような証言をされたのかもしれません。

更にですが、高知新聞で報じられた直後に、井口家のアルバムとほぼ同じものを古物商で購入された方がおられるようです。もちろん「お竜」とされる写真は入っていませんでしたが。現物をを確認された方によると、「ほぼ同じものが複数存在するという事実から、どこかで売られていたいわば写真集のようなものだったのでは無いか。」と感じられたようです。

もしそうであるなら写真集のようなものに当時発売されていたと言われるブロマイドのような女性の写真を挿み込んだだけなのかもしれませんね。

中井弘から井口家に渡ったとの話も典拠が何なのかヲイラは知りませんし、記名についても後年書き込まれた可能性が極めて高く、アルバム自体も複数存在していたとなると、ますます「若き日のお龍」とするには壁が高いのかな…と。

ふと思ったんですけど、
> アルバムの作成者も名前を書き込んだのも中井弘である蓋然性が高い。
って事であるなら、中井弘の直筆は公文書等に多数残されているでしょうし、井口家にも手紙等は残ってるでしょうから、筆跡鑑定を依頼されれば一番わかりやすいと思うんですけどね…。

  • 2010/01/07(木) 09:58:27 |
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おりょうさんの写真について

こんにちは!
おりょうさんの写真についてについてよく調べてありますね。
関心いたしました。
ちょっと僕の方で知っていることを補足すると、「井口新助氏所蔵のアルバム」は、中井弘の息子が、同年代の井口新助(井口家は代々、井口新助を名乗るので面倒なのですが)と親友であったことから、中井家から井口家に譲り渡された写真アルバムで、元は三冊ありました。(現在は二冊と明治になって複写された名刺版写真のバラがあります)
おっしゃるとおり西尾先生がアルバムを見た時点では「お竜」の鉛筆書きは写真アルバムの欄外には書きこまれていなかったようです。従ってこの鉛筆書きは井口新之助が書いたものと考えた方がいいようです。
井桜直美さんが東京平和島の古書市で見つけた半身像の写真には、写真台紙裏側の隅に「たつ」とひらがなで墨書きが書かれていました。
また、全く同じタイプの写真は京都山科の芸者関係の古写真を収集しているコレクターが持っており、これには写真台紙裏側に鉛筆書きで「土井」と書かれていました。
さらに、同じ女性が写された写真が見つかりましたが(別タイプ医衣装違い)、こちらは写真台紙がなく何も書かれていませんでした。
以上のことを考慮すれば、この芸者の写真は明治に入って入手された「(土井)たつ」という女性の写真と考えた方が、歴史研究者ならば当然のことです。(当たり前のことですが)

尚、詳細は今年春発行予定の霊山歴史館の機関紙「維新の道」をお読みくださいませ。

モドキ写真

なぜこの芸者の写真だけが一枚だけこの「井口新助氏所蔵のアルバム」にあったかという理由については、これは推察になりますが、福井の「春嶽公旧蔵写真アルバム」にも同様の例がありますが、俗に「モドキ写真」と思われます。
「モドキ写真」とはどういうことかといえば、若い頃のおりょうさんの写真が現存していないため、「まぁ、こんな感じの女性でした」という意味で、別の写真を入れ込んだという意味です。
しかも今回の場合は明治以降に井口家のどなたかが入れ込んだと考えた方がいいように思います。
従ってこの芸者の写真がおりょうさんの若い頃の写真だと100%断定、証明できているわけではないのですが、昨今のテレビ、書籍などでそう紹介されていると、この写真もフルベッキの集合写真のように一人歩きしている状況になっていますね。
嘆かわしいことです。
*科警研の調査結果は完全に間違っています。これは晩年のおりょうさんの真像の写真の耳を比較すれば明らかです。

森重さん、はじめまして。
東京龍馬会の板で何度か投稿を拝見しております。

さてお褒め頂きました調査結果についてですが、本文に記載しました通り維新を語る会さんの会報を転載させて頂きましたので、調査結果は同会のものです。

写真発見の経緯については、たぶんご存知では無いと思いますので簡単に説明します。

同会大西会長と会員であった石川実氏、両氏と親交の深かった西尾氏の三氏が西林寺へ楢崎将作の墓参りへ行かれた際、両氏から井口家の住所を聞かれた西尾氏が後日同家を訪問される事になります。訪問時井口家に残る様々な資料を同家から見せてもらった事が、同アルバムや血染めの屏風発見につながります。

写真については転載しました高知新聞での発表となりますが、記名が無かったと考えるのが妥当である事は先のコメントに書いた通りです。

その後、同写真が若き日のお龍とする西尾氏・宮地氏と、別人とする宇高隋生氏・阿井恵子氏による論争が起こります。論争内容については大西会長・川崎先生が当時の資料を保存されています。西尾氏は論争を好まれる方では無かったようですので、反論を控えられた事により沈静化し、阿井恵子氏以外の三氏がお亡くなりになられたので、当時の事を知る方も少なくなったそうです。

ですので現在同写真にまつわる論争?は、井桜氏の写真発見による二次論争とも言えるものであり、西尾氏と一番親しく発見から一次論争まで常に密接に関係しておられた大西会長が、よく調査されているのも当たり前といえば当たり前の事なのです。

「維新の道」で発表されるとの事楽しみにしております。

その上でもし可能であればご教示頂きたいのですが、中井家から井口家に譲り渡された事、元々三冊存在し現在は二冊である事を示す資料は存在しているのでしょうか。三冊については少なくとも三冊確認されているのか、三冊だけ作られたのかどちらでしょう。先のコメントで書きました「ほぼ同じアルバム」は三冊にカウントされているのでしょうか。

同一人物・別人、共に100% 断定されたわけでも無く、その間で様々な説・検証が行われている段階と理解しております。ヲイラとしては「似てるとは思わないな…。科警研の調査結果に『髪をアップにした時と降ろした時で目の位置なんてめちゃくちゃ変わるって事は考慮されてるの?』」ぐらいの感想です。w

しかし実際には森重さんお書きのように、まるで同一人物と断定されたかのような報道・テレビ・書籍が増え、龍馬伝のブームにより益々情報が一人歩きすると感じ、本エントリーをアップしました。

  • 2010/01/09(土) 20:17:45 |
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アルバム3冊の件

こんにちは!
アルバム3冊の件の件は、アルバムの発見時に西尾秋風先生が「鴨のながれ」にてご本人が書き残されています。
そこで京博の宮川先生に井口家にもう一度確認して貰うように話していますが、未だに返事はありません。

もうひとつ

僕が京博の宮川先生から「井口新助氏所蔵のアルバム」2冊とバラの写真を全部見せていただいた後に、井桜さんのと全く同じ名刺版写真を宮川先生から見せていただきました。
この写真が山科の古写真コレクターが持っていた写真とは違うものならば、3枚目の写真になりますが、その後、宮川先生は不思議なことに何も語っていません。(発表されていません。)
疑うわけではありませんが、この写真が山科の古写真コレクターが持っていた写真と全く同じものならば、写真台紙裏側に鉛筆で書かれていた「土井」の文字は消されていました。
また、宮川先生はこの山科の古写真コレクターが持っていた写真についても何も語っていません。
どうしてなんでしょうね?

基本姿勢

昨年末に多田敏捷先生と石田孝喜先生と京都で話していたのですが、中村武生先生も伏見の寺田屋の件では見事に再検証されていたのに、ことおりょうさんの写真については西尾秋風先生の書かれた内容を鵜呑みにして、自書に書かれていましたね。
僕の方はたとえ多田敏捷先生、石田孝喜先生、釣洋一先生、木村幸比古先生の記述であろうと、自分で再検証するという姿勢でいます。
また自説が間違っていたならば、素直に謝り、撤回、訂正もします。
大切なことは、たとえ半歩一歩でもいいので真実に近づけるように再検証、研究することです。
そして後世の歴史研究者に再検証できる形で、バトンを繋げることです。

西村兵造氏の逸話について

お竜ことー西村つる女の子孫が京都で健在だったのである。京都市下京区に住む西村兵造氏は、お竜の第二の夫(西村松兵衛)の兄兵蔵の直系で、その祖母ふさ77自(明治五年生まれ)は兵蔵の二女で、お竜の養女となっていた。同氏は『この写真に見覚えがある。祖母の所持品で、小学二、三年ごろ、たしかに手にとった記憶がある…』と言う。
という逸話は知っていますが、これも西村兵造氏のところに同じ写真があるならともかく、写真の現物がないのだから、逸話の内容が検証できないですよね。

> アルバム3冊の件の件は、アルバムの発見時に西尾秋風先生が「鴨のながれ」にてご本人が書き残されています。

「鴨のながれ」とは維新を語る会の会誌「鴨の流れ」の事でしょうか?大西会長・川崎先生に確認しましたが西尾氏が同誌に寄稿された記憶は無いとの事です。又両氏が西尾氏の見解を紹介された記憶も無いとの事です。もし森重さんが手元に同誌あるいは複写をお持ちであるのなら、何号の何ページであるかご教示いただけませんか。

宮川氏についてはほとんど知識が無いのでわかりません。

> 昨年末に多田敏捷先生と石田孝喜先生と京都で話していたのですが、中村武生先生も伏見の寺田屋の件では見事に再検証されていたのに、ことおりょうさんの写真については西尾秋風先生の書かれた内容を鵜呑みにして、自書に書かれていましたね。

寺田屋の検証については中村氏より早く維新を語る会さんが調査し詳細なる結果を会報・会誌で発表されています。中村氏もそれを入手されていますので、検証の参考にされた事は明白です。

西尾氏とは直接の接点が無かったように思いますので、写真発見の経緯やその後の論争等はご存知では無いでしょう。

森重さんの基本姿勢については敬意を表します。過去何度か拙ブログでも書いていますが、ヲイラが尊敬している大西会長・川崎先生・伊東担当課長は、いずれも森重さんと同じ姿勢で調査・研究されている方ばかりです。

> 西村兵造氏のところに同じ写真があるならともかく、写真の現物がないのだから、逸話の内容が検証できないですよね。

詳細についてはわかりませんが、西村兵造氏ご子息の所在をご存知なのは現在では大西会長・川崎先生のお二人だけでしょう。現在も様々な調査・研究をされていますので、西村氏にコンタクトされている・されるのかもしれません。

  • 2010/01/14(木) 09:51:07 |
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西尾秋風

僕が読んだのは以下のものでした。
西尾秋風「第七話 若き日のお龍写真発見」(『竜馬殉難こぼれ話』(自費出版、京都龍馬会、平成六年))
西尾秋風『竜馬殉難ひろい話』(自費出版、京都龍馬会、平成八年)
西尾秋風「若き日のお龍写真」(『龍馬殉難西尾史観』(自費出版、京都龍馬会、平成十年)

宮川禎一「新発見「おりょう」さんの古写真」(新人物往来社編『歴史読本-特集 新選組最後の戦い-』(新人物往来社、平成十四年二月号))
新人物往来社編「ニュース&トピックス 幕末明治 古写真の女 新発見「おりょう」写真と美人芸妓の謎」(新人物往来社編『歴史読本-特集 勤皇佐幕 幕末維新志士をめぐる女たち-』(新人物往来社、平成十四年六月号))
宮川禎一『龍馬を読む愉しさ』(臨川書店、平成十五年)

中村武生『京都の江戸時代をあるく―秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで』(文理閣、平成二十年)

鈴木かおる『資料から語る坂本龍馬の妻・楢崎龍』(新人物往来社、平成十九年)

  • 2010/01/14(木) 10:18:48 |
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その他

大西会長・川崎先生や西村氏にも機会があればいずれお会いしたいです。
恐縮ですがよろしくお伝えくださいますようお願いいたします。

  • 2010/01/14(木) 10:21:08 |
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  • 森重和雄 #-
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お詫び

先人の研究者の方々の業績は勉強になりますし、尊敬もしています。
大西会長、川崎先生のお二人にもお会いしてお話を伺いたいものです。

  • 2010/01/14(木) 10:28:40 |
  • URL |
  • 森重和雄 #-
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両氏には申し伝えました。入洛のご予定が決まれば是非ご連絡ください。両氏に連絡いたします。

ところで鴨の流れ14号はお持ちですか?国会図書館には寄贈されたようですが、川崎先生のところに、まだ若干在庫はあるようです。機会があれば御覧ください。

  • 2010/01/16(土) 19:22:15 |
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どうすれば

「鴨の流れ 第14号」を欲しいのですが、どこに申し込めば購入できるのかわかりません。
教えてくださいませ。
よろしくお願い申し上げます。

  • 2010/01/18(月) 10:12:56 |
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  • 森重和雄 #-
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Re: どうすれば

メール送信しましたのでご確認ください。

  • 2010/01/18(月) 17:10:47 |
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霊山歴史館の機関紙「維新の道」での参考資料

霊山歴史館の機関紙「維新の道」では紙面の関係で掲載できませんでしたが、僕が読んだ参考資料は以下になります。

【参考資料】
東京大学史料編纂所編纂、佐佐木高行著『保古飛呂比: 佐佐木高行日記. 3 巻21-24(明治元年)』(東京大学出版会、昭和四十七年)
川田雪山(瑞穂)『千里駒後日譚(全六回)』『同後日譚拾遺(全三回)』(「土陽新聞」連載記事(龍馬の妻であるお龍の回顧録)、明治三十二年十一月)
安岡秀峰(重雄)『雑誌「文庫」聞書・反魂香』(明治三十二年)
安岡秀峰(重雄)『雑誌「文庫」聞書・続反魂香 第五回後書』(明治三十三年二月十五日号)
安岡秀峰(重雄)『雑誌「文庫」聞書・維新の残夢 第一回後書』(明治三十三年三月十五日号)
桑田正三郎編『月乃鏡』(桑田商会、大正五年)
桑田正三郎編『桑の若苗』(桑田商会、大正五年)
安岡重雄「阪本龍馬の未亡人」(『実話雑誌 九月号』、昭和六年
貴田菊雄「坂本龍馬の未亡人に就いて」(『伝記』三の三、昭和十一年)
貴司山治「妻お龍その後」(新人物往来社編『歴史読本-生きている龍馬-』(新人物往来社、昭和四十三年二月号))
高橋恭一『坂本龍馬の妻りょう女』(横須賀観光協会、昭和四十三年)
田島武『神奈川のれん物語』(昭和書院、昭和四十六年)
平尾道雄監監修・宮地佐一郎編集/解説『坂本龍馬全集 全一巻』(光風社出版、昭和五十三年)
大内美予子『龍馬の愛した女おりょう』(新人物往来社、昭和五十三年)
阿井景子『龍馬の妻』(学芸書林、昭和五十四年)
宇高随生『写真事始め―もう一人の先覚者』(柳原書店、昭和五十四年)
宮地佐一郎編『坂本龍馬写真集』(新人物往来社、昭和五十七年)
土居晴夫『坂本龍馬とその一族』(新人物往来社、昭和六十年)
平尾道雄監監修・宮地佐一郎編集/解説『坂本龍馬全集 全一巻 増補四訂版』(光風社出版、昭和六十三年)
菊地明・伊東成郎・山村竜也『坂本龍馬 101の謎』(新人物往来社、平成五年)
西尾秋風「第七話 若き日のお龍写真発見」(『竜馬殉難こぼれ話』(自費出版、京都龍馬会、平成六年))
西尾秋風『竜馬殉難ひろい話』(自費出版、京都龍馬会、平成八年)
西尾秋風「若き日のお龍写真」(『龍馬殉難西尾史観』(自費出版、京都龍馬会、平成十年))
日本写真文化協会編『社団法人日本写真文化協会創立五十周年記念 写真歴史展「日本の肖像」幕末から明治・大正・昭和』(社団法人日本写真文化協会、平成十一年)
井桜 直美/著・トーリン・ボイド/英文・日本カメラ博物館/監修『セピア色の肖像-幕末明治名刺判写真コレクション-』(朝日ソノラマ、平成十二年)
ポーラ文化研究所編『別冊歴史読本 幕末明治 美人帖』(新人物往来社、平成十三年)
宮川禎一「新発見「おりょう」さんの古写真」(新人物往来社編『歴史読本-特集 新選組最後の戦い-』(新人物往来社、平成十四年二月号))
新人物往来社編「ニュース&トピックス 幕末明治 古写真の女 新発見「おりょう」写真と美人芸妓の謎」(新人物往来社編『歴史読本-特集 勤皇佐幕 幕末維新志士をめぐる女たち-』(新人物往来社、平成十四年六月号))
宮川禎一『龍馬を読む愉しさ』(臨川書店、平成十五年)
鈴木かおる「お龍と横須賀-龍馬の死後の足跡-」(横須賀市総務部総務課編『市史研究 横須賀 第4号』(横須賀市総務部総務課、平成十七年三月))
阿井景子『龍馬と八人の女性』(戎光祥出版、平成十七年)
森重和雄『内田写真株式会社創立135周年記念 幕末・明治の寫眞師 内田九一』(内田写真株式会社、平成十七年)
石黒敬章・森重和雄「内田九一写真鑑定術(写真館篇)」(日本写真芸術学会編「日本写真芸術学会誌 第14巻 第1号」、平成十七年)
土居晴夫『坂本龍馬の系譜』(新人物往来社、平成十八年)
前田秀穂『龍馬の原点消ゆ。』(三五社、平成十八年)
土佐藩戊申戦争資料研究会他編『高知市民図書館蔵中城文庫 目録・索引編』(高知市教育委員会、平成十八年)
土佐藩戊申戦争資料研究会他編『高知市民図書館蔵中城文庫 図版・解説編』(高知市教育委員会、平成十九年)
鈴木かおる『資料から語る坂本龍馬の妻・楢崎龍』(新人物往来社、平成十九年)
中村武生『京都の江戸時代をあるく―秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで』(文理閣、平成二十年)
渋谷雅之『近世土佐の群像(3)空蝉のことなど』(私費出版、平成二十一年)


新聞記事について

新聞記事については以下になります。

写真を鑑定 若き日のおりょうさんか  スポニチ 05月15日

 研究者やファンの間で坂本竜馬の妻「おりょう(竜)」かどうか論争になっていた若
い女性の写真を、警察庁の科学警察研究所が、本人と確認されている晩年の写真と比
較、15五日までに「同一人物の可能性がある」との鑑定結果をまとめた。鑑定を依頼
した高知県立坂本竜馬記念館が同日、発表した。
 論争の対象は、格子柄の着物を着た30歳前後とみられる女性の写真。裏に「たつ」
と書かれ、おりょうだという声が出る一方、「若いころは撮影を拒んでおり、別人」と
の意見も出て、見方が分かれていた。
 同館は1月、おりょうと特定されている60代の写真も科警研に渡して鑑定を依頼し
ていた。
 鑑定は顔の輪郭など7項目を精査。目や鼻の位置などに整合性が認められ、「別人で
あることを本質的に示す根拠はない」と結論づけている。
 同館の森健志郎館長は「科学的な鑑定で、あいまいな推測から一歩進んだ。おりょう
の可能性が高まった貴重な結果だ」としている。


お龍:異論あった若い写真「別人の根拠なし」  毎日新聞 5月15日

 坂本龍馬の妻お龍(りょう)(1841〜1906年)の若いころを写したとされな
がら、異論もあった写真について、警察庁科学警察研究所が、本人と唯一確定している
晩年の写真と比較し、「別人と示す根拠はない」と結論付けた。鑑定を依頼した高知県
立坂本龍馬記念館(高知市)が15日、発表した。
 鑑定された写真は01年に見つかった。お龍が32歳の時(1873年)に東京の写
真館で撮影したとされる。美人ぶりを示すものとして知られるが、服装などから本人か
疑問視する声もあった。
 科警研は晩年(60歳ごろ)の写真と顔の輪郭や目などの位置や形を分析。目や口の
形などに相違があるが、「年齢差を考慮するならば同一人でも生じる差」と認定。下唇
の下側の隆起や小鼻の膨らみ具合などが酷似しており、「同一人と示唆することが科学
的に妥当な判断」と結論付けた。


若き日の龍馬の妻と「同一人の可能性」 科警研 産経新聞 5月15日

 お龍さんと「同一人物の可能性がある」との鑑定結果が出た若い女性の写真 研究者
やファンの間で坂本龍馬の妻「おりょう(龍)」かどうか論争になっていた若い女性の
写真を、高知県立坂本龍馬記念館が警察庁科学警察研究所に鑑定を依頼し、「同一人の
可能性がある」との結果が出た。15日、同館が発表した。
 お龍の写真で裏付けがあるのは、晩年の63歳ごろの1枚だけ。うりざね顔の32歳
ごろの写真2枚は芸者風の姿なので、否定的見解もあった。
 科警研では、若いころの写真のうち陰影のはっきりしている座り姿の写真と晩年の写
真の顔型、眉(まゆ)、目、鼻、口、耳の位置や形をコンピューターで解析した。輪郭
はほぼ同じで、目、鼻、口の位置も同一だと確認できた。
 同館では「芸者風なのは、写真撮影時に当時のハイカラなモデル風に撮影したため。
お龍はやはり色白の京美人だった」とし、さっそく特別コーナーを設けることにした。


やっぱりお龍さん? 写真の女性、龍馬の妻の「可能性」 朝日新聞 05月16日

 幕末の志士、坂本龍馬の妻お龍(りょう)(1841ごろ〜1906)か否かを巡っ
て論議が続く若い女性の写真を、警察庁の科学警察研究所(千葉県柏市)が鑑定した結
果、本人の晩年の写真と比較して「同一人の可能性がある」と結論づけた。鑑定を依頼
した高知県立坂本龍馬記念館が15日発表した。
 写真は00年末、東京の古写真収集家のコレクションから見つかり、いすに座った3
0歳前後と見られる女性が写っている。被写体がお龍と唯一確認されている写真の顔つ
きと似ていたが、決め手に欠け、記念館が1月、科警研に鑑定を依頼していた。
 科警研は、顔型や鼻、唇の特徴を分析し、「同一人の可能性がある」と結論づけた。
ただ、双方の写真の撮影時期に約30年の差があることなどから断定は避けているとい
う。鑑定書の内容や写真などは近く館内で紹介される。
 記念館の森健志郎館長は「お龍の可能性が高まった」と話している。


追伸

警察庁の科学警察研究所(千葉県柏市)については鑑定内容についてメールで問い合わせをしましたが、今日にいたるまで全く無視されて何の返信もありませんでした。
(きっと僕は嫌われているんでしょうね)
そこで仕方ないので下記のサイトを参照いたしました。
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~ryoma/oryou.htm
これは幸いなことに僕の古写真の人物同定鑑定の持論である、「人間の顔は老化などによってその印象などは変わることがあるが、耳の形などは変わらない」ということがよくわかると思います。
つまり耳の印象は年をとっても変わりません。
つまり、晩年の真のおりょうさんの耳と、この芸者の耳は違うと僕は思います。

補足

また古写真の専門の研究者でこの芸者の写真をおりょうさんの若い頃の真の写真だと考えている人は誰もいませんが、僕と違って各先生方は慎重に考えているため発言を控えているだけです。
また、僕と同様におりょうさんの若い頃のモドキ写真だと考えている人はいます。

詳しくありがとうございます。

科警研の調査結果については、先にも書きましたが「可能性ゼロを立証できない限り『可能性がある』」ぐらいの意味でしか無いと感じています。

以前知り合いの弁護士と雑談した際、「勝てる可能性はありますか?」と尋ねたところ、「100% 負けるとする根拠が無い限り、0.1% から99.9% まで勝てる可能性は無限にある。可能性の話をしても仕方が無い。」との答えでした。科警研の可能性も同様だと思います。

又穿った見方をすれば「お龍の可能性が高まった」も、0.1% から0.2% に高まったのかもしれませんし…。

性格歪んでます。w

  • 2010/01/19(火) 16:18:33 |
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井口家史料

京都国立博物館の宮川禎一です。
私の名前が出てきたので、見てみれば・・・
ネット上で議論してもあれなので、是非、京都国立博物館で
井口家アルバムの実物を御覧になったら・・と心から思います。
真実こそが重要なので、見せない、などとは決して言いません。
おりょう写真か否か、ぜひ自分の目で確かめてはいかがでしょうか。写真の裏もお見せしますよ。
それから科学警察研究所の鑑定書は高知県立坂本龍馬記念館
がお持ちですで、宮川の名前を出して、請求して、是非ともすみからすみまで「熟読する」ことをお勧めします。
そのうえで鑑定書の意義を判断しても遅くないのでは・・
それではご連絡をお待ちしています。



宮川先生

宮川先生、こんにちは!
高知県立坂本龍馬記念館には早速、科学警察研究所の鑑定書の件、問い合わせをさせていただきます。
どうもありがとうございました。

お龍さんの真の写真について

明治三十七年に初めて一般に公開されたおりょう(西村つる)さんの写真については、撮影時に逸話があります。
以下がそうです。

川田雪山(瑞穂)が明治三十二年(1899年)におりょうさんの談話を取材し、その後、「最後に写真を撮らせてほしい」とおりょうさんに頼んだ。
するとおりょうさんは「西郷さんとの約束で写真は撮らぬことにしています」と一旦は断ったのだが、「西郷さんの写真はすでにあります」と川田が言うと、「それでは」と写真の撮影に応じたという。
この時(明治三十二年頃)撮影された写真が、晩年のおりょうさんの真の写真(六十四歳の頃)というわけでです。

しかしながら、このとき撮影されたおりょうさんの写真は、青少年の文学雑誌「文庫」に、「更に改題して、写真を加へ(現今のお良夫人は、今回を以て初めて、写真したるなれば、是おそらく、天下の絶品ならむ)諸君に御紹介しませう。」と掲載予告までされたのだが、実際には掲載されませんでした。

従ってこのときのおりょうさんの写真が初めて一般に公開掲載されたのは、明治三十七年(1904年)十二月二十五日の「東京二六新聞」の紙面で、川田雪山(瑞穂)がおりょうさんの話しを要約して記事とした際に、「龍馬未亡人龍子」との見出しで写真といっしょに報じたのが最初です。

これと全く同じ写真はおりょうさんが、明治三十九年(1906年)一月十五日、六十六歳で亡くなった時に、当時の明治三十九年一月十九日付「萬朝報」にも「西村鶴子」の遺影として掲載されているます。

撮影したのは

この写真を撮影したのは、川田雪山(瑞穂)が明治三十二年(1899年)におりょうさんの談話を取材し、その後、「最後に写真を撮らせてほしい」とおりょうさんに頼んだことを考えれば、川田雪山(瑞穂)だと僕は思います。

お礼

nakaさま
情報どうもありがとうございました。
川崎先生に「鴨の流れ 第14号」を送って貰うようにお願いいたしました。

  • 2010/01/22(金) 17:35:09 |
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  • 森重和雄 #-
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問い合わせ結果

科学警察研究所の回答は以下のことでした。

お問い合わせの件ですが、鑑定書は、「高知県立坂本龍馬記念館」へ送付しておりますので、そちらへお問い合わせ願います。

**************************
高知県立坂本龍馬記念館の前田さんからの回答は以下の文面でした。

森重和雄様

拝復
お問合せの件、回答いたします。
当館でコピーを見られるようにしております。
それ以外の閲覧はできませんのであしからずご了承ください。

こういう対応をどう思われるでしょうか?

宮川さま

是非、京都国立博物館で 井口家アルバムの実物を御覧になったら・・と心から思います。
⇒東京大学の倉持先生たちといっしょに「井口家アルバム」関係の写真は全て拝見させていただきました。

『龍馬を読む愉しさ』

「井口家アルバム」の写真リストは、宮川禎一先生の『龍馬を読む愉しさ』(臨川書店、平成十五年) にも掲載されています。
このアルバムは一頁に一枚の名刺版写真を差し込み式に入れた小型の写真アルバムです。
従って写真の順番は元からそうであったかは不明です。
このアルバムには49枚の名刺版写真がありまして、そのほとんどの写真は明治になって撮影された内田九一の写真でした。
実際に僕が観た芸者の全身像の写真は、アルバムの枠の左下に「お竜」の鉛筆書きがありました。
つまり「お竜」の文字は写真そのものにではなく、写真アルバムの外枠に書かれています。
また、この写真は46枚目のページにありまして、その前後にある写真は以下のとおりです。(*は宮川禎一先生の人物鑑定による)
44 若州公 酒井忠道(*旧小浜藩主 若者)
45 槇村(*槇村正直 長州 京都府知事)
46 お竜
47 土州人(*沢村惣之丞)
48 男性三名坐像 軍装(*長崎振遠隊 上野幸馬含む;森重・これは誤りで実際は上野鉄馬が写っている写真です)
49 画幅写真(*僧侶画像 人物は不明)

高知県立坂本龍馬記念館

高知県立坂本龍馬記念館の前田さんには、昨夜もう一度、科学警察研究所の鑑定書(原文)をメールか郵送で送って貰うように丁寧にお願いしてみました。

「お竜」の文字について

先の高知新聞( 昭和57年(1982年)12月22日(水曜日)) によれば「お竜」の文字が書かれたのは、おそらく昭和57年以降のことだと僕も思います。
それが誰かといえば、三代目・井口新助(新之助)というよりも、四代目・井口新助か五代目・井口新助が書いたような気がします。
高知新聞の記事は、昭和57年の発見時点では無記名だった写真に、井口家の誰かが「お龍さん説」を聞いて(目にして)「お竜」と写真へ鉛筆で筆記したのを、現在ではその時期不明の記名自体が手伝って「お龍さん説」を補完しているわけです。

全身像の写真について

「井口家アルバム」にある全身像の写真の写真台紙裏側は白で、特に何のデザインも印刷されてなく、何も書かれてはいませんでした。
一方、井桜さん所蔵の半身像の写真の方は、明治五年頃(明治四年から六年頃まで)に使用されていた内田九一の写真台紙のデザインでした。
従ってこの写真が撮られた時期もその頃と判ります。

お龍さんは天保十二年(1841年)の生まれ、明治三十九年(1906年)一月十五日に六十七歳で亡くなっていますから、仮に撮影が明治五年(1872年)とすれば、数えで三十一歳の時になります。

おりょうさんについて

おりょうさんについては、いろいろ調べてみたけれど、鈴木かおる先生のご著書である『資料から語る坂本龍馬の妻・楢崎龍』(新人物往来社、平成十九年) が最高ですね。
これ以上の参考資料は今のところないです。
この本を読んでない人が坂本龍馬関係の本を書いているとしたならば、まずいいかげんな本だと思っていいです。

おりょうの遺言

おりょうの遺言で西村松兵衛はおりょうさん分骨を携て、東山の坂本龍馬の墓と楢崎家の墓に分骨埋葬したそうです。
おりょうの遺品としては、龍馬日記 由利公正の扇子 掛軸の三点を秘蔵していたそうですが火事で全て焼失してしまったそうです。(西尾秋風氏談)

「井口家アルバム」の写真リスト

『龍馬を読む愉しさ』(宮川禎一著、臨川書店)にある「井口家アルバム」の写真リストをここにもう一度書いておきます。

写真の分類については宮川禎一先生によります。
写真は大きく分けると、名刺判鶏卵紙の写真を一頁に一枚ずつ差し込んだ洋装アルバム二冊(AとB)と、元からバラバラであった複写の写真群(C)の三つになります。
写真群(C)は写真台紙から全て明らかに明治以降に複写された名刺判写真です。
撮影者名がはっきりしているもの以外は、写真台紙裏には何もないです。

以下は整理番号、写真、写真横に記入された内容、本名、備考、写真館の順で、リストになっています。

【写真アルバムA】
A1 男性肖像 和装 高松太郎か             海援隊 慶応二年か
A2 男性立像 和装 土州 菅野角平君 菅野覚兵衛 海援隊 慶応二年か 上野彦馬か
A3 男性座像 洋装 長州 木戸公 伏見宮 貞愛親王 皇族(記述は誤り) 内田九一か
A4 男性立像 和装 後藤庄次良君 後藤象二郎 土佐藩 慶応三年 上野彦馬
A5 男性座像 和装 土州 長岡健吉君 長岡健吉 海援隊 慶応三年か 上野彦馬
A6 男性座像 和装 福井縣三ツ国君幽眠先生 三国幽眠 福井藩士
A7 男性胸像 和装 江藤新平 町田久成 町田久成 薩摩藩士 留学生
A8 男性二名座像 和装 一新初年 嶋津公 島津珍彦ほか一名 薩摩 島津久光の息子達 上野彦馬
A9 男性座像 和装 土州 中嶋作太郎君 中島信行 海援隊 慶応三年か 上野彦馬
A10 男性座像 和装 薩州大久保一翁 大久保一翁 幕臣 明治以降 上野彦馬
A11 男性立像 和装        (不明) 若い男性 海援隊士か 上野彦馬
A12 男性立像 和装        長岡謙吉 海援隊士 慶応三年か 上野彦馬
A13 男性立像 和装 山本幸助 山本幸助(洪堂) 海援隊士 慶応三年か 
A14 男性座像 和装 高杉 高杉晋作 長州 慶応二年ごろ 上野彦馬
A15 男性座像 和装        (不明) 幕末
A16 男性三名座像 松平下野守(黒田長知)、遠藤謹助、アトミラール・キング(キング提督)

【写真アルバムB】
B1 男性座像 和装 三条公 三条実美 公家 明治以降
B2 男性座像 和装 岩倉公 岩倉具視 公家 明治以降
B3 男性立像 和装 勝 勝海舟 旧幕臣 明治以降 内田九一
B4 男性立像 和装 島津図書久治 島津公 島津珍彦か 薩摩 島津久光の息子 内田九一
B5 男性座像 和装 島津忠欽島津公 島津忠欽か 薩摩 島津久光の息子 内田九一
B6 男性立像 和装 永山弥一郎君 永山弥一郎 薩摩 陸軍少佐
B7 男性胸像 洋装 大久保利通 大久保利通 薩摩 内務卿
B8 男性胸像 洋装 木戸公 木戸孝允 長州 参議
B9 男性胸像 洋装 大鳥圭助 大鳥圭介 旧幕臣 明治以降
B10 男性胸像 和装 大隈伯 大隈重信 肥前 参議
B11 男性座像 和装 東伏見公 東伏見公か 皇族 明治以降 内田九一
B12 男性座像 和装 徳川慶喜公 徳川慶喜 将軍 幕末写真
B13 男性胸像 洋装 榎本鎌 榎本武揚 旧幕臣 明治以降
B14 男性立像 洋装 最初軍医総監 松本順 松本良順 旧幕臣 明治五年頃 内田九一
B15 男性二名 洋装・和装 井上馨 芳川顕正 井上馨 芳川顕正 長州 明治以降 内田九一
B16 男性胸像 洋装 大久保一翁 大久保一翁 旧幕臣 東京府知事
B17 男性立像 和装 後藤象次郎 後藤象二郎 土佐 明治六年参議 内田九一か
B18 男性胸像 和装         (不明) 明治以降
B19 男性立像 和装 徳川亀之助 徳川亀之助 徳川家達 内田九一
B20 男性集合 和装 西郷 島津兄弟ほか 六名集合 謎の西郷写真 内田九一
B21 男性胸像 洋装 上野公使 上野景範 薩摩 駐英公使
B22 男性立像 洋装 青木周蔵 青木周蔵            内田九一
B23 男性胸像 洋装 山縣公 山県有朋 長州 陸軍卿
B24 男性立像 洋装 前島密 前島密 郵便制度創設者 内田九一
B25 男性立像 和装 細川公 細川護久 明治以降 内田九一
B26 男性二名 和装 前田公 前田利同 旧富山藩主親子 内田九一
B27 男性立像 和装 徳大寺卿 徳大寺実則 公家 内田九一か
B28 男性座像 和装 長州公 毛利敬親 長州藩主 キング提督会見時
B29 男性胸像 洋装 板垣伯 板垣退助 明治 参議時代か
B30 男性親子像 和装     松平茂昭親子 旧福井藩主 内田九一
B31 男性座像 和装      (不明) 松平光庸か 信濃松本藩主
B32 男性座像 洋装      (不明) 大名あるいは公家 若い
B33 男性座像 洋装 福沢諭吉 福沢諭吉 断髪後 内田九一
B34 男性座像 洋装 津軽経永 津軽承昭 細川斉護の四男 内田九一
B35 男性座像 洋装 萬里小路博茂公 萬里小路博茂 公家 内田九一
B36 男性座像 洋装 備前公 池田章政 旧岡山藩主 内田九一
B37 男性座像 洋装      (不明) 旧藩主クラス 上杉茂憲か 内田九一か
B38 男性胸像 和装 容堂公 山内容堂 旧土佐藩主 
B39 男性座像 和装 容保 會津中将 松平容保 旧会津藩主 明治以降
B40 男性胸像 和装 京都府知事 長谷 篤 長谷信篤 京都府知事
B41 男性立像 和装 紀州公 徳川茂承 徳川茂承 旧紀州藩主 椅子はB46と同じ 内田九一
B42 男性座像 洋装 大阪府知事 渡辺昇 渡辺昇 旧大村藩士 大阪府知事
B43 男性座像 和装               西周か 
B44 男性胸像 洋装 和州公 酒井忠道 酒井忠道 旧小浜藩主 若者
B45 男性胸像 洋装 槙村 槙村正直 長州 京都府知事
B46 女性立像 和装 お竜 楢崎龍か 坂本龍馬夫人 内田九一
B47 男性座像 和装 土州人 沢村惣之丞 海援隊士 関雄之助 上野彦馬か
B48 男性三名座像 軍装      (不明) 長崎振遠隊 上野幸馬を含む
(注:上野鉄馬の間違い) 
B49 画幅写真             (不明) 僧侶画像 人物は不明

【複写名刺判写真C】(全て後年の複写写真)
C1 男性座像 和装     中岡慎太郎 慶応二年 京都 (*保利与兵衛)
C2 男性座像 和装     勝海舟 明治以降
C3 男性座像 和装     高杉晋作 慶応二年 長崎 (*上野彦馬)
C4 男性座像 和装     後藤象二郎 慶応三年 長崎 (*上野彦馬)
C5 男性座像 和装     桂小五郎 慶応年間 長崎か 木戸孝允 (*上野彦馬)
C6 男性立像 和装     長岡謙吉 海援隊士 (*上野彦馬)
C7 男性座像 和装 井口新助 井口新助  井口家伝来
C8 男性胸像 和装 坂本龍馬 坂本龍馬 (*上野彦馬)
*印は写真のオリジナルの撮影者

くどいようですが

おりょうさんの晩年の写真は、安岡秀峰が「続反魂香」の最後に、「(前文略)更に改題して、写真を加え(現今のお良夫人は、今回を以て初めて、写真したるなれば、是おそらく、天下の絶品ならむ)諸君に御紹介しませう。」と書かれていますので、この取材時に撮影されたものでしょう。

しかし、その後のおりょうさんの状態については、「反魂香」「続反魂香」「維新の残夢」には特に詳細は書かれていませんでした。

本物のおりょうさんは坂本龍馬の慶応二年(1865年)十二月の姉乙女宛の手紙に、「今年二十六歳」という記述があることから、天保十年(1839年)頃の生まれといわれています。

くどいようですが。

森重様それからこの掲示板の関係者様
 
 京都の宮川禎一です。
 くどいようですが、もういちど現物を見ながら、写真の書き込みを
良く見たらどうかと・・・森重さんの話には事実認識と自分の憶測との区別がないような・・・・アルバムは2冊しかないのに、どこの誰が3冊目があると言ったのか・・言えますか?
 事実は事実、自分の意見は自分の意見、人の意見は人の意見。
 あと、森重さんばかり書いていますが、それ以外の方々も是非、その目で井口家アルバムを見たらどうでしょう?
 そんなまがい物を見てもしかたない・・とは言いませんよね?
 敵の本丸に乗り込む勇気は・・皆さんありますよね。
 
 鑑定書については、高知まで行って直接誠意をもってお願いしたら・・と思います。見せてくれないのは・・あやしい・・とはどんな感性かと・・
 ここまで井口家アルバムを疑われるとは・・・ま、実物見てからようやくあれこれいう資格が生まれると思いますが。
 井口家アルバムの写真の書き込みにこのように信頼性が無いのなら、高名な幕末研究者が「沢村惣之丞」として「無批判に」使っているあの洋装姿の沢村の写真も当然全く使えないのに・・・それは良いのは何故か・・こちらがお聞きしたい位です。
 「偽」おりょう写真の次にあの「前高知愛之助」の写真があるのに・・・その書き込みも当然信用ならない・・のでは?

 おりょう写真に厳しい方が沢村の写真を平然と使っているのを見るたび・・・「この人は史料論が分かっていない」・・と思っているのです。

 勇気の有る方は是非、宮川まで電話でご連絡下さい。
 京都国立博物館の代表電話をお調べください。

森重さん
> おりょうの遺言で西村松兵衛はおりょうさん分骨を携て、東山の坂本龍馬の墓と楢崎家の墓に分骨埋葬したそうです。

こちらは後日アップ予定の別エントリーにしたいと思います。先日の信楽寺でのお龍さん法要に、御霊を霊璽に移して再会された事について、色々な方からお話を伺っていますので。

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宮川さん
初めまして。

宮川さんがコメントを投稿いただいたこの場所は掲示板ではありません。一個人であるヲイラ(ハンドル naka)が運営・管理しているブログのコメント欄です。

ブログコメント欄と掲示板の違いをここで説明いたしませんが、全く別のものですのでご理解頂いた上でご投稿頂ければと思います。

さて「ネット上で議論してもあれなので」というご発言についてですが、これは、「ネット上で議論しても仕方が無い」とか「ネット上で議論しても意味が無い」に等しい言葉であるのなら、ブログの存在やお寄せ頂いたコメントを全否定されているように感じてしまいます。もちろん全否定される事は自由ですが、何故否定する場所にコメントされるのか理解できません。

>  敵の本丸に乗り込む勇気は・・皆さんありますよね。
>  勇気の有る方は是非、宮川まで電話でご連絡下さい。

申し訳ありませんがヲイラには「お母ちゃんに言いつけるぞ!」とか「僕のパパは社長なんだぞ!」といった幼稚園レベルの煽りにしか思えません。上記のような発言を書かれて楽しいですか?

もちろんネットだけでの議論で十分だとは誰も感じていないでしょうし、オフでの検証作業・議論も併せて必要なのは当然だと思います。しかしネット上に存在している議論の場にわざわざ乗り込んで否定・煽りをする事は幼稚としか思えません。

> アルバムは2冊しかないのに、どこの誰が3冊目があると言ったのか・・言えますか?

井口家の写真について研究されている宮川さんの発言とは俄かには信じられませんでしたし、驚いてしまいました。

写真発見者である西尾秋風氏が「龍女写真、真偽騒動始末」の中で「この写真は、近江屋井口家の土蔵から発見されたと一部の人に誤伝されているが、実は同家秘蔵(貸金庫預け)の皮表紙の小型アルバム三巻から筆者が発見したものである。」と書かれています。

西尾氏証言の真偽についてはわかりませんが、「どこの誰が」については明らかです。写真について研究されている方であれば最低限発見の経緯等については熟知されていると思っていましたが全くご存知無かったのですね。

>  鑑定書については、高知まで行って直接誠意をもってお願いしたら・・と思います。

えっと、それは反則でしょ。

宮川さんが「宮川の名前を出して、請求して、是非ともすみからすみまで「熟読する」ことをお勧めします。」とお書きになっていたのですから、当然「宮川先生からお聞きした」と申し添えれば資料を送付頂けると思うのが普通です。

しかし森重さんが請求されると断られてしまったのですから、宮川さんと記念館の連絡が上手く取れていなかったのか、本来記念館ではそのような対応をされていないのにかかわらず宮川さんが勇み足でお書きになったかでは無いのですか。

どちらであっても森重さんにお詫びされるのが先では無いでしょうか。

> 見せてくれないのは・・あやしい・・とはどんな感性かと・・

これは 2010/01/22(金) 19:19:00 森重さんの「こういう対応をどう思われるでしょうか?」についてでしょうか?先にも書きましたが宮川さんがご提示された方法で資料請求されたにも関わらず、断られた事に対して「こういう対応」と書かれているのであって、「見せてくれないのは・・あやしい・・」なんて事はどこにも書かれていません。書かれてもいない事を勝手な脳内解釈で「どんな感性かと」と書かれる感性を疑ってしまいます。

>  ここまで井口家アルバムを疑われるとは・・・ま、実物見てからようやくあれこれいう資格が生まれると思いますが。

その前に発見の経緯や発見者である西尾氏について調べる事が先では無いですか?あれこれ言う事に資格が必要であると言われるのなら、どうぞ有資格者だけの場所で議論してください。突然資格を持ち出されてもヲイラはそれに応じる気は毛頭ありません。

もし「貴方にでは無い、森重さんへのコメントです。」という事であれば、誰へのレスであるか明確に示すべきですね。

「沢村惣之丞」についてはこのエントリーに全く関係無い事です。

> 「この人は史料論が分かっていない」

凄く上から目線の失礼な方なんですね。
史料論云々まで言われるのであれば、何故本エントリーで書いている「発見時鉛筆による記名は無かった」について何もコメントされないのでしょうか。西尾氏の著書や報道でも記名は無かった事は明らかなのですから、それが間違いと主張されるのであれば誰もが納得できる根拠を提示されるべきでしょう。もちろん井口氏の証言は知っていますが、西尾氏の証言・報道を否定するには十分ではありません。西尾氏について少しでもご存知であれば当然理解できると思います。

一応書いておきますが、写真を拝見してもヲイラはお龍さんと面識がありませんので、おりょう写真か否か判断できません。会った事も無い方について判断できませんよね。

又わざわざ高知まで出向いて鑑定書を見る気もありません。

ヲイラとしては同一人物とも別人とも断定できない状態であるのに、まるで同一人物と断定されたかのように報じるメディアに問題を感じていますし、同一人物説を唱えられる方が、西尾氏が発見された当時記名が無かった事について明確な検証・反論をされていない事にも疑問を感じています。

外野席からの提案で申し訳無いですが、どうせなら宮川さんと森重さんで公開討論会でも開催されたらどうですか?龍馬伝ブームの現在ですから、十分ペイ可能な動員を見込めるでしょうし、高名なお二人でしたらメディアも飛びつくでしょう。あるいはネット配信するのもおもしろいでしょうね。

宮川さんであればサシの公開討論をお受けになる勇気もお持ちでしょう。森重さんは如何ですか?

  • 2010/01/25(月) 16:45:25 |
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宮川さま

宮川先生
こんにちは!
今、基本的に大切なことはできるだけ調べて、その調べた結果を情報公開し、後世の研究者たちの糧、材料にして残すということだと僕は考えています。
その過程の中で自分の仮説が誤りと判明すれば、僕は自分の仮説を撤回あるいは修正して後世の研究者の判断に委ねます。
そういう観点でぜひ議論に加わっていただけましたら幸いです。
このブログを読まれている他の方にも、ぜひ参加していただきたいです。
こういう場のおかげで新しい情報がひょっこりとわかるケースもあります。
僕はそういうことも期待しておえります。
なかなかこういう文章ではニュアンスが伝わらないので、感情を壊されたかもしれませんが、そうであればお詫び申し上げます。

また、宮川先生が井桜さん所蔵の半身像に最初にお気づきになられたことについては、僭越ですが僕は高く評価しております。
こういうことからヒントが増えてこの「井口家アルバム」の全身像の女性の写真の解明も進むと思います。

要はこの「井口家アルバム」の全身像の女性の写真がまだおりょうさんの写真だとは100%断定できていないということです。

それはマスコミや雑誌、本がいけないのだと思います。
沢村惣之丞の写真については別途調べて、改めて報告させていただきます。




宮川です。

確かに頭に血が上って書いてしまったのは反省しています。
ご不快なことだったことでしょう。
申し訳ありません。真実の問題なのでした。

まず、「お竜」の鉛筆書きの問題です。
これに異論があったのは知っていたので、10年ほど前に
故井口新助様からアルバム2冊(3冊ではないのです)を
預かった際に「昭和初期に初めて見た際にはありました」
との言葉を聞いて「龍馬を読む愉しさ」にそう書きました。
西尾秋風先生にはお会いしてことがありませんが、
その時、書いていなかった、というのなら、それ以後に書いた、
という結論にはなります。
ただ、井口家アルバムには墨書や鉛筆書きの記載は混在
しており、特別「お竜」の記載だけが新しそう、には私には
見えません(もちろん印象です)。

高知の坂本龍馬記念館の鑑定書の件はお詫びしたします。
後で確認したところ、来館者の閲覧には供しているが
個々の問い合わせに答えない・・との龍馬記念館の方針だと
いうことです。この点、確かめもせずに
「宮川の名前でなんとかなる」などと高言してしまいました。
もちろん研究を妨害するつもりはありません。

今後は森重さんと直接やりとりいたします。
ご不快な思いをさせて申し訳ありません。


















宮川さま

いえいえ、僕は宮川先生と何度かお会いしてお話もさせていただいていますし、別に今回のことで不快に思っているわけではありません。
むしろ僕の書き方が悪かったのかもしれません。
そういう意味では僕の方も反省いたします。

だけど僕は特定の人たちがいろいろ言っても仕方がないので、基本的に広く情報公開するのが原則だと考えています。

高知県立坂本龍馬記念館の対応については、ちょっとフェアじゃないよね。というのが僕の感想です。
自分たちのHPで公開しているくせに、科学警察研究所の鑑定書の原文を情報公開した上で、自分たちはこう思うよねというHPにすればいいだけです。(それも文責にするべきです)
まして市立ではなく県立なんですから、当たり前だと僕は思います。
それとこれは宮川先生の名誉のためにも書いておきますが、歴史読本でも『龍馬を読む愉しさ』でも、宮川先生はこの写真は若い頃のおりょうさんの写真ではないだろうか?と問題提起をされているだけだと、僕は考えています。

それを読んだ人がどう解釈されるのかは、マスコミも含めて宮川先生の責任ではありません。
もちろん宮川先生自身が率先して「この写真が若い頃のおりょうさんの写真であることは100%断定できる!」などいうコメントを公で吹聴するような人ではないと僕は信じています。

それとnakaさんのブログ上で、nakaさんにも不愉快な思いをさせてしまったようで申し訳ございませんでした。
どうもありがとうございます。

こんなこと書くのも変ですが、宮川先生は気まじめないい人です。

僕はその人の人間性を否定しているつもりはありませんが、そういう風に読まれてしまったとしたら、それは僕の不徳ということでお許しくださいませ。

だけどこういうのは公の場でどんどんいろんな人が自分の考えを主張した方がいいと僕は思います。

今回はたまたまたnakaさんがそういう舞台をご用意されたので、僕はその舞台に乗りました。
だから宮川先生にもぜひ自説の主張をどんどんこの場で発表いただけますようにお願い申し上げます。








それと

正直言って僕も最初は何の疑いもなくこの「井口家アルバム」の全身像の女性の写真はおりょうさんの若い頃写真だと思っていました。
もっともそれはこの写真についてとか、おりょうさんのことについて何も自分で調べたわけではなかったので単純にそう思っただけです。
そういう意味では一般の普通の人と同じですよね。

たまたま僕は内田九一のことを研究テーマに調べていたので、その過程の中で本当に若い頃のおりょうさんの写真なのかどうかをもう一度、自分なりに観点で調べてみただけです。
その結果として今のところこの写真が真の若い頃のおりょうさんの写真だとは納得できないというだけです。

科学警察研究所の鑑定書の件は、僕なりに違うことを主張することができますが、「鑑定書の原文も観ていないくせに」と言われたくないので、科学警察研究所の鑑定書の原文が見たいということです。
どうしても高知の坂本龍馬記念館に行かなくては観れないということならば、僕は行きます。

その他

宮川さんであればサシの公開討論をお受けになる勇気もお持ちでしょう。森重さんは如何ですか?
⇒これについては僕の方はまったく問題ありません。
宮川先生しだいです。
各紙の新聞記事についてはこのブログでもご紹介したように、記者が何を根拠にそう書いたのか?僕自身は理解に苦しみます。
なーんだ、結局、科学警察研究所が、本人と確認されている晩年の写真と比 較して、「同一人物の可能性がある」との鑑定結果を述べているだけじゃん。
むしろどうして「これこれこういう鑑定で同一人物だと断定した」とはっきり言わないの?という感じでした。
それを勝手に解釈した書いた各紙の新聞記者も裏を取っていないという意味で駄目記者ですよね。
僕はそう思います。

それと

宮川先生にも他の人にも誤解がないように書きますが、僕はこのブログをたまたま見つけて意見を書いているわけで、このブログの運営・管理しているnakaさんとは、一度もお会いしたことはありませんし、電話でお話ししたこともありません。

沢村惣之丞の件

高名な幕末研究者が「沢村惣之丞」として「無批判に」使っているあの洋装姿の沢村の写真も当然全く使えないのに・・・それは良いのは何故か・・こちらがお聞きしたい位です。
⇒この件は僕も知らなかったので、これから調べて見ようと思います。
naka さまには恐縮ですが別途エントリーしていただけましたら、調査の途中経過を含めて、そのエントリー上で情報公開いたします。

「井口家アルバム」の名称について

宮川先生にお願いしたのは、確かに井口家の写真アルバムですが、「井口家アルバム」という呼称については本来は「中井弘蔵旧蔵写真アルバム」といういい方の方がより正確な呼称ではないでしょうか?

それは中井弘蔵の息子と井口新之助の息子が遊び友達という関係もあって、この写真アルバムが中井家から井口家に譲渡されて、それに明治になって後年に井口家で入手された古写真もある可能性もあるわけですから(宮川先生の分類の【複写名刺判写真C】がそうだと思います)です。

もちろんだからといってこの写真資料の重要性が損なわれるということではありません。
【複写名刺判写真C】以外は、重要文化財クラスの古写真資料だと僕も思います。

補足

くどいようですが、もういちど現物を見ながら、写真の書き込みを
良く見たらどうかと・・・
⇒宮川先生はこう書かれていますが、僕も現物は見させていただきましたが、断定できる事実は、この全身像の女性の写真の写真台紙裏側は白で、特に何のデザインも印刷されてなく、何も書かれてはいないということと、アルバムの欄外下に「お竜」という文字が鉛筆で書かれているということだけです。
歴史を真摯に研究する者ならば、逸話は逸話として、まず現状を客観的に述べるべきであって、根拠のない推察や自己の仮説、希望などはそれを読者にちゃん断ったうえで述べるべきです。



それと

森重さんの話には事実認識と自分の憶測との区別がないような・・・・
⇒という宮川先生のコメントに対しては、どこの部分のコメントがそうなのか具体的に言ってくださいませ。

補足

 「偽」おりょう写真の次にあの「前高知愛之助」の写真があるのに・・・その書き込みも当然信用ならない・・のでは?
 おりょう写真に厳しい方が沢村の写真を平然と使っているのを見るたび・・・「この人は史料論が分かっていない」・・と思っているのです。
⇒このコメントの意味がよくわかりませんでした。
例えば「 「偽」おりょう写真の次にあの「前高知愛之助」の写真があるのに・・・・」に何に意味があるのでしょうか?

「おりょう写真に厳しい方が沢村の写真を平然と使っているのを見るたび・」
⇒僕のことじゃないですよね。
誤解を与えるような書き方は勘弁して下さいませ。

西尾秋風先生について

宮川先生はどうか知りませんが、西尾秋風先生については正直に僕は最初は知らなかったので、調べ始めて著作などを初めて読みました。

訂正

まして市立ではなく県立なんですから、当たり前だと僕は思います。
と書きましたが「市立」ではなく「私立」です。
文章は「まして私立ではなく県立なんですから、当たり前だと僕は思います。 」で、発言の趣旨は公立の施設なんだから情報公開があたり前でしょうという意味です。

いいかげんにされては

nakaさん、はじめまして。
貴ブログの一読者です。
なるべく発言は控えていようかと思いましたが、あんまりな状況なので。



森重さま。
他人のブログに、次から次へとコメントをし続けるのは、あまり良識的な行為では、無いと思います。
ほどほどにされては如何でしょう。
宮川先生も直接、やりとりをされるとおっしゃっておられるのですから、もうコメントをし続ける必要性は、無いと思います。
ましてやブログ管理者に「別途エントリーしていただけましたら」などと要請するのは、ブログ読者の域を超えています。

ご自身の説を披露されるなら、ご自身のブログなりで、されるべきかと思います。
科警研やメディア批判も結構ですが、最早、議論する土俵は違う場所に移ったのですから、どこか他所でやって下さい。コメント欄の私物化はルール違反だと思います。
切なるお願いです。


nakaさん、失礼致しました。





  • 2010/01/26(火) 17:18:07 |
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  • 一読者 #-
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宮川さん

もうご覧頂く機会も無いと思いますが…。

同一人物説を唱えられる方がどのようにお考えであるのか全くわからない状態でしたので「その時、書いていなかった、というのなら、それ以後に書いた、という結論にはなります。」とコメント頂けた事は大きな成果です。ありがとうございました。

西尾氏の功績は誰も疑う余地は無いと思っています。ですが事実とは異なる記述も存在しますし、一部行動については首を傾げざるを得ないものもあります。きっちり切り分ける必要があると思っています。

写真については発見者としての証言、その後起こった宇高氏・阿井氏との第一次論争については、是非西尾氏の著書でご確認頂きたいと思います。

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森重さん

> 高知県立坂本龍馬記念館の対応については、ちょっとフェアじゃないよね。というのが僕の感想です。
> 自分たちのHPで公開しているくせに、科学警察研究所の鑑定書の原文を情報公開した上で、自分たちはこう思うよねというHPにすればいいだけです。(それも文責にするべきです)

ここは少し意見が異なります。宮川さんから報告頂きました様に、本来複写の展示物を閲覧する以外の方法は取られていないのであれば、それは龍馬記念館のルールだから仕方無いと思います。

ヲイラも該当ページ(http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~ryoma/oryou.htm)、あるいは下部ディレクトリで原文を公開して頂きたいと思いますが、「鑑定書では、『別人と判定するに足る形態学的相違点は認められない』、『両者を同一人と判定する上で有効な形態学的類似所見が散見される』とし、『同一人の可能性がある』と結論づけている。」との掲載で、それ以外は結論に至る詳細でしか無く鑑定書の趣旨は十分伝わると判断されたと理解しています。

ですのでヲイラは「結論はあくまで『同一人の可能性がある』であって、『形態学上は同一人と判断する』までには至っておらず、科学的な鑑定をしても可能性の有無までなのか…」と感じています。

県立施設なので、県の情報公開制度を利用した場合、どう対応されるのかな?ってのは興味ありますが。

宮川さんに対する反論・ご質問・ご意見は、既に宮川さんがこの場を去られたようですので…。もちろん宮川さんが「ネットでも有意義な議論が出来るのだな」と感じられ、再度ご参加頂ける際には、ローカルルールの範囲でご自由に議論してください。

> それは中井弘蔵の息子と井口新之助の息子が遊び友達という関係もあって、この写真アルバムが中井家から井口家に譲渡されて、

再度の質問になりますが、上記典拠は何でしょうか。中井弘の息子、龍太郎氏に関する日記等が存在するのでしょうか?

投稿時にパスワードを入力して頂ければ、コメント下部にある[ 編集 ]から、コメント修正が行えます。レスのついたコメントで無ければ、訂正コメントより読み易く簡単です。

> このブログの運営・管理しているnakaさんとは、一度もお会いしたことはありませんし、電話でお話ししたこともありません。

はい。それがネットの特徴だと理解しています。以前PSE問題で動いていたときも、全国の方と毎日100通以上のメールで情報交換していましたが、その中でお会いする事になったのは1割にも満たない方だけです。

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一読者さん

はじめまして。
ご意見ありがとうございます。

宮川さんに対するコメントについては森重さんへのレスで記しましたが、それ以外の本エントリーに関するものであれば問題無いと考えています。又宮川さんとの議論の場は他所に移動となりましたが、宮川さん以外との場全てが移動したとは理解していませんので、必要性についてはご本人の判断だと思います。

基本スパム・ローカルルール違反以外は、ヲイラにとって都合が悪いコメントでも承認しますので、コメント間隔や数についてのルールを提示していない以上問題視はしていません。ただ少々細切れっぽいコメントになっているのは事実ですので、読み易さを考えればいくつかをまとめて頂ければありがたいです。

> ましてやブログ管理者に「別途エントリーしていただけましたら」などと要請するのは、ブログ読者の域を超えています。

確かにこれは少し困ってしまいました。

というのも「沢村惣之丞」についてヲイラは何も知識がありませんし、今後必要に迫られない限りは自分で勉強する事も無いでしょうから。ぶっちゃけ「エントリーしたくても、内容が無い…」って状態です。w

考え方を変えて、「SNS 個人ページ等で行われている掲示板利用の為の捨てエントリーがあれば便利」との要望であるなら、それは対応できる(する)余地はありますが、管理できるかな…との心配もあるので思案中でした。

アクセス頂いている他のユーザーさんが、どう感じておられるのかは知る術がありませんので、一読者さんのコメントで一つの意見を知る事ができました。ありがとうございます。

  • 2010/01/26(火) 19:40:41 |
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  • naka #upkHALyQ
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お詫び

一読者さま
どうもすみませんでした。
お詫び申し上げます。

nakaさん、失礼致しました。

「沢村惣之丞」の写真については僕の方も全くこれから調べてみるという状況です。
たぶん時間がかかると思います。

再度の質問になりますが、上記典拠は何でしょうか。中井弘の息子、龍太郎氏に関する日記等が存在するのでしょうか?
⇒これは宮川先生の『龍馬を読む愉しさ』p166をお読みくださいませ。

井口家の逸話

> それは中井弘蔵の息子と井口新之助の息子が遊び友達という関係もあって、この写真アルバムが中井家から井口家に譲渡されて、
再度の質問になりますが、上記典拠は何でしょうか。
⇒これは井口家の逸話になります。
詳細は宮川禎一先生の『龍馬を読む愉しさ』(臨川書店、平成十五年) を、お読みくださいませ。
この本は「井口家アルバム」の詳細を読める唯一のいい参考資料です。

【写真アルバムA】

【写真アルバムA】
A1 男性肖像 和装 高松太郎か   海援隊 慶応二年か
の写真は坂本龍馬の写真だったと記憶しております。

横レスにて失礼します。
はじめまして宮川禎一さん、ハンドル松裕堂と申します。

> おりょう写真に厳しい方が沢村の写真を平然と使っているのを見るたび・・・「この人は史料論が分かっていない」・・と思っているのです。

>「偽」おりょう写真の次にあの「前高知愛之助」の写真があるのに・・・その書き込みも当然信用ならない・・のでは?

私の場合、若きお龍かとされる写真については「断定はしないけどお龍さん説でまぁいいんじゃない」程度にとらえていたくせに、沢村惣之丞の写真については人物比定に疑義をていすような論を読んだことがなかったので、ぜんぜん気にもとめておりませんでした。

「井口家アルバム」について詳しい書誌(『龍馬を読む愉しさ』は先日拝読いたしました)や影印本などあれば、御指摘される以前にいろいろと考えることも出来たのでしょうが、あいにく管見のかぎりそのような書籍があることを知りません。

引用した後者の指摘はつまるところ「「前高知愛之助」の記名が「お竜」の文字と似たような筆跡で、なおかつ同じ筆記用具で書かれてたものなのに、どうしてコチラは無批判に受け入れられ通説化しているのか?」という意味理解でよろしいでしょうか?

「お竜」との記名は、このエントリーで話題にものぼっているとおり、記名された時期をふくめ問題になっている部分なので、単純に「前高知愛之助」の例とは同列にあつかえる問題じゃないように思います。

それとも「前高知愛之助」の記名にも「お竜」の例とおなじような経緯でもあるんですか?

  • 2010/01/28(木) 11:57:43 |
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  • 松裕堂 #6eUroIng
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高知県立坂本龍馬記念館2

高知県立坂本龍馬記念館の前田さんには、もう一度、科学警察研究所の鑑定書(原文)をメールか郵送で送って貰うように丁寧にお願いしてみましたが以下の回答でした。

拝復
先便でも申しあげたとおり
館内閲覧のみですのでご了解ください。

高知県立坂本龍馬記念館の方針のようですので、高知に行かなければ閲覧できないようです。

コメントが僕ばかりで申し訳ないのですが

コメントが僕ばかりで申し訳ないのですが、これも誤解のないように書いておきますが、僕はおりょうさんについて調べている過程で、おりょうさんの写真は晩年の真像しか確かな写真がないにも関わらず、昨今のマスコミ、諸書ではこちらの写真は紹介も少なく、まだ断定できていない「井口家アルバム」の女性の写真ばかりが、一般の人々へおりょうさんのイメージとして植えつけられてゆく現状がひどい、むごいと思いました。
信楽寺の門前にも「伝・おりょう」としてこの写真は紹介されています。
このまま放置していていいのだろうか?というのが僕の考えです。
もちろん、この女性の写真も、真の若い頃のおりょうさんの写真だと証明できれば、それはそれで僕も納得いたします。
(間違いでなくてよかったねという感じです)
しかしながら、現状ではまだそういえる状況ではないですよね。
だから、この写真を「若い頃のおりょうさんの写真」だと吹聴する人には「どういう根拠で?」と厳しく追求しているわけです。

問題の整理

ここでもう一度この問題を整理しておくと、
①最初に西尾先生が「井口家アルバム」を観た時に「お竜」という鉛筆書きがあったのかどうか。
③「井口家アルバム」は二冊だったのか、三冊だったのか。
西尾先生は発見時に三冊あったと書き残している。
これは現時点では、宮川先生が井口家から聞いた話としては井口家では二冊しかないという話でした。

森重さん
宮川氏の著書を所有していませんので、資料館で閲覧します。

> まだ断定できていない「井口家アルバム」の女性の写真ばかりが、一般の人々へおりょうさんのイメージとして植えつけられてゆく現状がひどい、むごいと思いました。
> 信楽寺の門前にも「伝・おりょう」としてこの写真は紹介されています。
> このまま放置していていいのだろうか?というのが僕の考えです。
> もちろん、この女性の写真も、真の若い頃のおりょうさんの写真だと証明できれば、それはそれで僕も納得いたします。
> (間違いでなくてよかったねという感じです)
> しかしながら、現状ではまだそういえる状況ではないですよね。
> だから、この写真を「若い頃のおりょうさんの写真」だと吹聴する人には「どういう根拠で?」と厳しく追求しているわけです。

仰るとおりです。わからないことは「わからない」と言えば良いと思うんですけどね。

> 問題の整理
> ここでもう一度この問題を整理しておくと、
> 1、最初に西尾先生が「井口家アルバム」を観た時に「お竜」という鉛筆書きがあったのかどうか。

記名は無かったとしか考えられません。記名があった事を隠し三年間放置されるとは、西尾氏について知れば知るほど考えられないからです。

> 3、「井口家アルバム」は二冊だったのか、三冊だったのか。
> 西尾先生は発見時に三冊あったと書き残している。
> これは現時点では、宮川先生が井口家から聞いた話としては井口家では二冊しかないという話でした。

並列に書くのは難しいと思います。宮川氏が確認されたのは発見時でも公表時でも無く後年になってからだからです。

っで2番は?

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松裕堂さん
もう宮川さんは拙ブログにアクセスされていないと思いますので、レスは期待できないでしょう。もし松裕堂さんの調査で何か判明すればご報告頂けるとありがたいです。

あっ、それと全く関係無いんですが「横レスにて失礼します。」って挨拶は拙ブログでは必要無いですよ。本エントリーに関する範囲でなら、どなたがどのコメントにレスされても問題無いと思っていますので。

  • 2010/02/01(月) 16:38:04 |
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  • naka #upkHALyQ
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画像処理による写真比較

2は科学警察研究所の鑑定書をまだ読んでいないのですが、鑑定方法についてですね。
この写真の鑑定は科学警察研究所で三度目です。
平成八年十月十日の「ソニー坂本龍馬研究会」による「コンピューターによる画像処理とその結果」(釜谷直樹氏)
と、平尾先生のご友人による写真の鑑定です。
どちらもやり方は同じです。

科学警察研究所の鑑定書の件

科学警察研究所の鑑定書をようやく入手して読むことができるようになりました。
入手方法などの詳細は書けませんが、読んだら僕の感想はここでご報告したいと思います。

我ながら亀なレスポンスでもって恐縮です。

>何か判明すればご報告頂けるとありがたいです。
了解しました。
宮川氏の書かれた『龍馬を読む愉しさ』には、アルバムについても大変詳しい書誌が載ってますので、いろいろ参考になるんですが、今回質問いたしました点についてはあいにく何も書かれておりません。

「お竜」と記名されたページなら、同書にもシッカリ掲載されてますので、状態把握はできるんですが、比較すべき沢村惣之丞掲載ページ(「前高知愛之助」記名ページ)は掲載されていませんので先述のような質問になりました。

時間をみつけ次第、手持ちの本のなかに記名ページが載ってないか探してみようかと思います。
しかし、あるかなぁ~。手持ちに。

>「横レスにて失礼します。」って挨拶は
不特定多数の参加するエントリーだけに、蛇足とは思いながらも辞令的クセのまま使用しちゃいました(笑)。

間違っている「ネチケット」の見本ですね。以後、自戒します。

  • 2010/02/06(土) 22:05:11 |
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  • 松裕堂 #6eUroIng
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沢村惣之丞の写真

「井口家アルバム」にある沢村惣之丞の写真がどんな写真なのか、僕も一度観た事があるのですが、どんな写真なのか忘れました。たぶん椅子に腰かけている写真だと思いますが、・・・
とにかく沢村惣之丞の写真は他にないだろうかと探していますが、ベンチマークとなるような写真が見つかりません。
しかしながら中城文庫に「沢村惣之丞、菅野覚兵衛、長岡謙吉」の三人と思われる集合写真があります。
この集合写真の左の人物が沢村惣之丞だとすれば、椅子の人物もも同じ顔ですから、沢村惣之丞でしょうね。

沢村惣之丞の写真2

「井口家アルバム」にある沢村惣之丞の写真を京都国立博物館の図録で確認できました。やはり椅子に腰かけている写真で帽子、洋装の写真でした。

森重和雄さん、松裕堂です。
何やらお手を煩わせまして申し訳ありません。

>やはり椅子に腰かけている写真で帽子、洋装の写真
はい、存じ上げております。
沢村惣之丞の写真として巷間に紹介される写真は、ほぼ間違いなくその写真ですし、これがアルバムにあること自体は以前より承知してました。

宮川氏が「洋装姿の沢村の写真も当然全く使えないのに・・・」と仰られますので、沢村写真掲載ページも当然「お竜」記名ページとほぼ同じ問題条件なんだろう、と思い確認をとりたかった次第です。

「前高知愛之助」という記名が鉛筆書きで、なおかつ筆跡も「お竜」と似たものであれば、宮川氏の批判も相応宜べなるかなと合点いくのですが、あいにく「前高知愛之助」という記名ごと掲載されている写真が見当たらないので、ボチボチ手持ち書籍のなかにソレがないか、一寸探してみようかと思ってます。

  • 2010/02/08(月) 09:43:24 |
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  • 松裕堂 #6eUroIng
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前高知愛之助

松裕堂さま

「前高知愛之助」という記名はちょっとおかしいですよね。
沢村惣之丞のことをよく知っている人が書くならば、変名としては「前河内愛之助」と書くのではないでしょうか?
例えば井口さんが誰からか聞いて書けば音が似ているので、書き間違うということは充分考えられますね。

沢村惣之丞

井口家アルバムの写真の書き込みにこのように信頼性が無いのなら、高名な幕末研究者が「沢村惣之丞」として「無批判に」使っているあの洋装姿の沢村の写真も当然全く使えないのに・・・それは良いのは何故か・・こちらがお聞きしたい位です。
 「偽」おりょう写真の次にあの「前高知愛之助」の写真があるのに・・・その書き込みも当然信用ならない・・のでは?
 おりょう写真に厳しい方が沢村の写真を平然と使っているのを見るたび・・・「この人は史料論が分かっていない」・・と思っているのです。
⇒と宮川先生に言われた僕は、宮川先生ご自身も何も調べていないので、この写真についても調べているのですが、少なくともこの写真の人物と同じ顔の人物が写っている写真が、高知市民図書館の「中城文庫」にある千屋家の写真にあることは判りました。
この千屋家の写真は、三人が並んで写っている集合写真で、左の人物が沢村惣之丞、中央の人物が菅野覚兵衛、右の人物が長岡謙吉です。
この集合写真は、佐藤寿良著『ある海援隊士の生涯ー菅野覚兵衛伝ー』(私家本)の口絵写真にも掲載されているそうです。

沢村惣之丞

「井口家アルバム」の「前高知愛之助」と書かれた写真には、丸ボケマスクの別の複写写真もあるようです。
この写真は山田一郎『海援隊遺文』(新潮社、平成三年)のp226に「龍馬とともに脱藩した沢村惣之丞(海援隊)の背広姿」というキャプションと共に掲載されていました。

追伸

 おりょう写真に厳しい方が沢村の写真を平然と使っているのを見るたび・・・「この人は史料論が分かっていない」・・と思っているのです。
⇒僕の方は沢村の写真を平然と一度も使ったり、調べた事はありませんでしたが、それで今回のことを切っ掛けに調べてみました。
しかしながら、今のところこの写真が、沢村惣之丞であることを示す明快な証拠も、否定の根拠も見つかっていないというのが、現状です。
史料論がよくおわかりの宮川先生には否定の根拠も具体的に示して欲しいところですよね。

疑問

高知の坂本龍馬記念館も宮川先生も、古写真のことを調べるならば、なんで古写真の専門家のその道の研究者のご意見を聞かないのか、不思議でしょうがないです。
小沢健志先生、金子隆一先生、石黒敬章先生などなどといっぱいます。
史料論が分かっていないと宮川先生に言われた僕はそう思いました。
もっともそのご意見はそのまま宮川先生にお返しいたしましたが。

森重和雄さん、松裕堂です。
レスポンスが遅く申し訳ありません。

>「前高知愛之助」という記名はちょっとおかしい
仰るとおり文字として我々が見慣れているのは「前河内愛之助」なので、文字としての予備知識がある人であれば、「前河内愛之助」と記名するのが普通だと思います。この点は逆に、中井弘が耳で聞いたまま書いからこそ、「前高知愛之助」という表記になってるんじゃないでしょうか?

仮に昭和57年以降に現代人が追記したものあれば。「前河内愛之助」と普通なら書くべきところです。つまり、昭和57年以降におこなわれたとみえる「お竜」記名と「前高知愛之助」記名とは、この場合比較できる対象にはあたらない、と私的にはみています。

>千屋家の写真は、三人が並んで写っている集合写真
その写真とはコチラ→【http://homepage3.nifty.com/kaientaidesu/html/taishi5.htm】のサイトに「海援隊時代の千屋寅之助(中央・後の菅野覚兵衛)」として掲載されている写真のことですかね?

人物比定を考えたこともなかったので気がつきませんでしたが、左の人物(むかって右の人物)は確かに沢村にそっくりですな。

>丸ボケマスクの別の複写写真
確認しました。
仰れるまで「写真掲載上の表現(演出)か何か」だと思い、複写写真とは意識してませんでした(笑)。
我ながら注意力ないというか、感心がうすいというか……。

  • 2010/02/13(土) 10:21:51 |
  • URL |
  • 松裕堂 #6eUroIng
  • [ 編集 ]

はい

松裕堂さま

この点は逆に、中井弘が耳で聞いたまま書いからこそ、「前高知愛之助」という表記になってるんじゃないでしょうか?
⇒中井弘ならば変名ではなく、別の呼称で書いたのではないでしょうか?
仮に昭和57年以降に現代人が追記したものあれば。「前河内愛之助」と普通なら書くべきところです。つまり、昭和57年以降におこなわれたとみえる「お竜」記名と「前高知愛之助」記名とは、この場合比較できる対象にはあたらない、と私的にはみています。
⇒書かれた時期については確かにもうちょっと検討する必要がありますね。

はい、「中城文庫」の写真は、この「海援隊時代の千屋寅之助(中央・後の菅野覚兵衛)」として掲載されている写真のことです。よく見つけましたね。
「中城文庫」の写真の方は、もう一回り周りが写っていますから、これは「中城文庫」の写真をトリミングして掲載したんでしょうね。

「中西君尾の葬儀写真」

nakaさん

こんにちは!
ちょっと気になる写真があるのですが、川崎泰市先生ご所蔵の「中西君尾の葬儀写真」という写真(大正七年三月頃撮影)が「鴨のながれ 第14号」のp193に掲載されていました。
この集合写真に写っている前から二列目の左から二番目の女性の顔をよく見てみたいですね。

松裕堂 さん
> 間違っている「ネチケット」の見本ですね。以後、自戒します。

いえいえ。
ネチケット云々では無く「お気遣い無く」程度の事ですので。

----------------------------------------

森重 さん
な~~~~~んにも知らないヲイラの戯言ですが、「**論が分かっていない・知らない」等の発言は良く目にしますが、ヲイラからすれば学者・研究者という肩書きの方が書かれたものでも、いい加減な内容が多いと感じています。

例えば旅館幾松の発信する情報をそのまま紹介されている方は、な~~~~~んにも知らない素人のヲイラより(ry

もちろん旅館幾松の発信する情報が正しいのであれば根拠史料をもって論じられれば良い事なんですが、知る限りでは誰も行われていません。「信じるに値する」とブログで擁護された方も未だに何も提示はされていません。

「**論が分かっていない・知らない」と言われても、そんな**論に興味の無いヲイラからすれば、「だから何?」程度にしか感じないです。

「中西君尾の葬儀写真」について川崎先生に確認したところ、君尾ゆかりの方が所蔵されている写真で、鴨の流れへの掲載を特別に許可して頂いたそうです。ですので現在川崎先生がどうこうできる写真では無いようです。

  • 2010/02/18(木) 22:19:12 |
  • URL |
  • naka #upkHALyQ
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似ている

この集合写真に写っている前から二列目の左から二番目の女性が、ちょっと「井口家アルバム」にある女性に似ていますね。

  • 2010/02/20(土) 04:24:50 |
  • URL |
  • 森重和雄 #-
  • [ 編集 ]

森重和雄さん
>中井弘ならば変名ではなく、別の呼称で書いたのではないでしょうか?
たしかに中井弘であれば他の呼称で書く可能性もありますね。
とくに「関雄之助」の変名なら、中井弘が帰国した時期と使用していた時期が合致しますんで、どうせ変名でもって書くのであれば、ソチラが一番耳慣れていそうな気はします。

ただ前河内愛之助の変名も文久~元治のころ、上方を中心に活動していたさいに沢村が使っていた変名なので、近江屋新助に贈ったいう点を考慮すれば、むしろコチラの方が通りがいいかもわかりません。

ここら辺は可能性の話しなので、断定しにくいところですけど。


nakaさん
> ネチケット云々では無く「お気遣い無く」程度の事ですので。
了解です。御言葉忝い。

  • 2010/02/21(日) 11:43:30 |
  • URL |
  • 松裕堂 #6eUroIng
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松裕堂さま
ただ前河内愛之助の変名も文久~元治のころ、上方を中心に活動していたさいに沢村が使っていた変名なので、近江屋新助に贈ったいう点を考慮すれば、むしろコチラの方が通りがいいかもわかりません。
⇒だから、書かれていたのは「前河内愛之助」の変名ではなく「前高知愛之助」ですから、中井自身が書いたのではないでしょうか。誰か別の人、井口家の人間が書いたのでしょう。

松裕堂さま
書き方が悪かったので謝ります。
書かれていたのは「前河内愛之助」ではなく「前高知愛之助」という文字でしたから、中井自身が書いたというわけではなく、誰か別の人、例えば井口家の人間が書いた可能性の方が高いような気がします。


  • 2010/04/05(月) 00:26:36 |
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  • 森重和雄 #-
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鴨の流れ 第14号

はじめまして

幾松の件、読ませて頂きました。

鴨の流れ 第14号
の在庫はもうないのでしょうね?

もしあれば購入したいのですが

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