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よっぱ、酔っぱ。ただの酒飲みでよっぱなヲイラの戯言です。

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池田屋騒動後の入江家と古写真について。

Category : 歴史

間違った情報が氾濫しているようなので。


【ここから続き】

池田屋騒動で有名な旅館池田屋。騒動後営業停止となり約7ヶ月後に再開し、後年佐々木旅館になったとの記述も多く見受けるが、実際は事変後営業停止となり屋敷・什器・畳1枚まで競売にかけられることになり、伏見に住む桝谷という人物が「桝屋」という屋号で営業することになる。その後「大勢館」「伏見屋」「佐々木旅館」と移り変わっていく。

池田屋の屋号は娘である入江てるが引き継ぎ明治16年頃木屋町で再開。てる(長女)が大井家に嫁いだ後は末妹よね(三女)、更によねが辻家に嫁いだ後は姉こう(次女)へと引き継がれる。又妻である入江まさは同時期木屋町で「入江亭」という屋号で貸席屋を開業している。

入江亭の場所はほぼここで間違い無いと思っている。

http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-565.html

http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-589.html

池田屋前の碑は昭和2年京都市教育会によって建立されたが、寄贈者として碑に刻まれている佐々木フサとは伏見屋の主であり、その後同地を引き継ぐ佐々木旅館は佐々木フサの親族が経営者である。

20100104001

20100104002

現在池田屋古写真として世に広まっている上記写真は、寺井萬次郎氏が昭和4年の12月、あるいは昭和5年の1月に当時の伏見屋を現地調査をされ、同行されていた中川忠三郎氏が撮影されたもの。注意深く見れば床の間に松飾があるのがわかる。

後に佐々木旅館から発行された「池田屋事變始末記」という小冊子の監修を寺井氏が行っているが、この写真は同冊子で最初に紹介された。しかし寺井氏の現地調査まで既に65年経過しており、又「桝屋」「大勢館」「伏見屋」と移り変わってきた事からも、同写真の部屋が池田屋当時の部屋とするには無理がある。もちろん行われたであろう改装が建替えでは無かったことから、基本的な柱・階段の位置はそのままと考える事は可能なのかもしれない。

池田屋調査については、昭和56年9月1日放映のNHK歴史の招待「新撰組・池田屋騒動」で、寺井氏と司馬遼太郎との共同調査結果が取り上げられており、現在NHKオンデマンドで閲覧することが出来るとの情報を、徘徊の記憶管理者 vinfo さんから御寄せ頂いた。

「池田屋事變始末記」で紹介された写真については、京都維新を語る会(寺井氏が初代会長)に入会された石田氏が借り受け自著で使用されているが、池田屋地下室と題された写真については、果たして池田屋の写真であるのか疑問である。

20100104003

維新を語る会さんでは、炭等が写っていることからも寺井氏の自宅(枡屋喜右衛門宅)では無いか?と考えられている。偶然知り合いから頂いた「幕末志士の世界(芳賀登)」の巻頭では「枡屋方の地下室」として同じ写真が紹介されている。

古写真の複写は石田氏から資料館・出版社等に寺井氏・中川氏に無許可の状態で流出し、原写真は石田氏と異なる維新を語る会会員が寺井氏より借り受けたが、何時の間にか東大に売却されてしまった。

他にも長州藩紋が入った「池田屋」の看板が入り口にかかった古写真が存在するが、これは映画のセットを撮影した可能性が高い。

「池田屋事變始末記」には再開された木屋町池田屋について「元吉冨屋旅館十三番路地前」との記述があるが明治16年頃吉富旅館は存在したし、吉富旅館に路地が存在した可能性は低く、入り口部分を仮に路地と呼ぶとしても、"前"にあたる部分は吉富旅館の一部であった。又吉富旅館の場所を十三番路地とすれば他の史料と整合性が無くなる事から、間違いである可能性が極めて高い。

娘である入江てるによって再建された池田屋の場所は以前も書いたが、岩倉使節団に同行した五辻安仲寓居の場所である可能性が高い。

結論として池田屋の古写真は現在のところ存在しない。現在あるのは昭和4年の12月あるいは昭和5年の1月に中川忠三郎氏が撮影された「伏見屋」内部の写真だけである。

コメント

素晴らしい!

こんにちは!
素晴らしい内容の調査報告ですね。
中川忠三郎氏が撮影された写真については、某出版社の社長が継承して幕末明治、維新関係の本を制作してましたが、その後倒産、労働争議もあって行方不明になっていますね。

中川忠三郎氏が撮影された写真は、
京都市教育会編『京都維新史蹟』(1928年同会刊)
に多く掲載されているようですね

蛇足

芳賀登『幕末志士の世界』のp15の「統幕奔走の志士たち」とp80の「幕末の志士剣客」、p114の「ムスメラシャメン」は完ぺきな間違い写真です。
ついでに書けばp147の「奇兵隊の幹部」の写真も根拠不明の写真です。
古写真についていえば、これもこのように何の根拠もなく諸書で勝手に使用、掲載されている実例です。

大勢屋

石田孝喜先生の『写真で見る維新の京都』(新人物往来社、昭和61年)p108の右上の写真は、よく見ると屋号を表示するランプ?の正面に「大勢屋」、左側面に「旅館」と見えるような気がしました。

『京都維新史跡寫眞帖』

京都大学附属図書館 維新資料画像データベースの尊攘堂史料 『京都維新史跡寫眞帖』もご覧ください。

攘堂史料 『京都維新史跡寫眞帖』補足

尊攘堂史料 『京都維新史跡寫眞帖』にある写真をいつ、誰が撮影したかといえば、これは大正五年十一月十七日に京都新京極蛸薬師東の写真館「高木舗」の小谷荘治郎が坂本彌太郎、中岡、中岡信、清岡猛虎、川田瑞穂の五人を同行して撮影しています。

緑紅叢書について

京を語る会の田中緑紅先生の緑紅叢書は、昔の京都を知る上で、確かにいい参考資料だけど、誰も再検証していないのでちょっと引用するには不安な資料とも僕は考えています。
誰か再検証してくれる若い研究者か、郷土史家はいないのでしょうか?

中村武生先生に期待したいこと

中村武生先生に期待したいことは、先人たちが当時の事情でやむをえなく建てた石碑を、できるだけ正確な場所に建て替えをして貰いたいということですね。
近江屋とか古高邸跡とかの石碑の位置のことです。

大勢館

正面に「大勢屋」と書いてしまいましたが、虫眼鏡で見ると「大勢館」でした。
お詫びして訂正させていただきます。

補足

近江屋跡の石碑は当時の建物の所蔵者が死人が出たとは縁起でもないということで、しかたなく北側縁の今の場所に石碑が立っています。
古高邸跡の石碑についていえば、本来の古高邸の入口は東側の高瀬川側ですから、こちらに建てるべきですよね。

色々とご教示頂きありがとうございます。

石田氏著書の写真は、仰るとおり「大勢館」のものです。どなたが撮影されたものかは知りません。

田中緑紅氏についての研究者はわかりませんが、ご子息がまだご健在ですので、一番の研究者では無いでしょうか。それ以外ですと孫弟子にあたる大西会長になろうかと思います。

> 中村武生先生に期待したいことは、先人たちが当時の事情でやむをえなく建てた石碑を、できるだけ正確な場所に建て替えをして貰いたいということですね。
> 近江屋とか古高邸跡とかの石碑の位置のことです。

これは少し疑問です。

京都市教育会・三宅安兵衛の碑に限って言えば、誰かが移設を行う事よりも、先ずは行政が碑や史跡についてどう関わって行くのかを決める事が先決だと思います。現在民地に建立されている多くの碑は、所有権者がわからないまま明日廃棄されても誰も文句が言えない状態です。もちろん廃棄される恐れがある場合、行政は地権者に対し存続のお願いをされているようですが、強制力は何もありませんし碑を引き取り保管する事も行えない状況です。

もし行政に碑や史跡が大切な観光資源であるとの認識があるのであれば、やはり行政がどう関わって行くのかを議論し、結果行政によって保存する方向が望ましく、その際正確とは言えない建立地であるかも含め、透明性のある場で議論すべきと考えています。ただ、京都市教育会・三宅安兵衛等により建立された碑については、碑そのものが歴史的価値のあるものになっているので、移動せず解説板等で補足するほうが相応しいのかもしれません。

ですので一研究者だけの判断で観光資源を扱うべきでは無く、何よりも明日廃棄されてもおかしくない現状を改善する事が優先されるべきというのがヲイラの考えです。

  • 2010/01/14(木) 09:49:36 |
  • URL |
  • naka #upkHALyQ
  • [ 編集 ]

なるほど

石碑については行政はもちろん、地元地権者のご理解など大変ですよね。
皆様方のご活動には敬意を賞します。

  • 2010/01/14(木) 10:10:10 |
  • URL |
  • 森重和雄 #-
  • [ 編集 ]

関心の無い地権者にとっては、わけのわからない邪魔な物でしかありません。

例えば近江屋の向側にある「中岡慎太郎寓居地」の碑も、以前ミキハウスが自社ビルを建設する際撤去され路地の奥に放置されていました。ミキハウスがビルを売却し同地から撤退した後、現在碑がある場所の地権者により表通りに設置されました。

しかし「勝手に場所を移動させた」とか「碑を盗んで商売に利用している」といった心無い批判を口にする方もおられるようです。批判を口にするのなら、何故撤去される際存続の為に動かなかったのか疑問ですし、廃棄されず保管されていただけでも良かったと考えるべきだと感じます。

東京・大阪資本の企業が今後も進出するでしょうから、同様の事例は今後も起こり得ます。京都市が観光客誘致の為にマップを作成し、散策ルートを設定しても、現場に行ったら既に碑は廃棄され存在しなかったなんて事も充分考えられる事なんです。

ですのでヲイラとすれば誘致より先に観光資源の保存が必要であろうと。もちろん碑が行政の所有物になれば、建立場所地権者との賃貸契約等も考えねばいけませんし、そもそも建立場所・碑文が正しいのかといった歴史検証も必要になります。きっと行政が積極的に動かない・動けないのはその辺りの理由と感じていますが、解決策はいくらでもあります。

先ずは行政が観光資源の保存について話し合いの場を設ける事が必要だと感じています。

  • 2010/01/16(土) 19:39:59 |
  • URL |
  • naka #upkHALyQ
  • [ 編集 ]

池田屋地下室と題された写真について

池田屋地下室と題された写真について、『新選組再堀記』を昭和47年11月25日に発表された釣洋一先生ご本人に直接、伺いした。
釣洋一先生いわく、この写真は最初から、枡屋喜右衛門宅の地下の写真だ。それがどうして池田屋地下の写真になったのかは自分は知らないとのことでした。
また石田先生の著書にどうしてそういう説明で写真が掲載されたのかは、信じらないというコメントでした。
これはもしかすると石田先生の責任ではなくて、当時の編集責任者の責任のような気がします。
但し石田先生も自己のお名前で本を出版された以上、その責任はあると思います。

「大勢館」の写真について

「大勢館」の写真は調べてみると、中川忠三郎氏が撮影されたもののようですね。
『鴨の流れ 第十四号』p170に同じ写真が掲載されていました。
これを考慮すれば、現在ある池田屋の内部写真といわれる写真は、昭和4年の12月あるいは昭和5年の1月に中川忠三郎氏が撮影された「大勢館」内部の写真ではないでしょうか。

「大勢館」の写真について2

この写真も撮影時は昭和4年の12月の方が可能性が高いようです。

森重さん
少し進展しました。
昭和6年に寺井維史郎氏が監修された佐々木旅館発刊の「池田屋事変始末記」という冊子があります。そこで同写真が「池田屋の地下室にて武器弾薬を隠せし処」と紹介されています。
枡屋は寺井氏宅であったのですから意図的に違った紹介をされたように感じます。石田氏については同冊子を始めとする多くの史料からの孫引きがほとんどですから、ご自身での検証・確認も無しに掲載されたのでしょう。

池田屋内部の写真については、撮影時期が昭和4年の12月あるいは昭和5年の1月であることは確かです。少なくとも碑建立時(昭和2年)には、同地は伏見屋だったはずです。そうでなければ伏見屋主の佐々木フサによる寄贈はあり得ないからです。ですので伏見屋内部の写真で間違いないと思います。

寺井氏が池田屋を調査されたのは内部写真を撮影されたときが初めてであることから、大勢館の写真(外観)については中川氏がそれ以前に撮影されたのでは無いでしょうか。

  • 2010/02/01(月) 16:36:20 |
  • URL |
  • naka #upkHALyQ
  • [ 編集 ]

なるほど

建物の入り口、外観なのでそうかも知れませんね。

訂正

以前に、
「尊攘堂史料 『京都維新史跡寫眞帖』にある写真をいつ、誰が撮影したかといえば、これは大正五年十一月十七日に京都新京極蛸薬師東の写真館「高木舗」の小谷荘治郎が坂本彌太郎、中岡、中岡信、清岡猛虎、川田瑞穂の五人を同行して撮影しています。」
と書きましたが、お詫びして訂正させていただきます。

撮影したのは小谷荘治郎ではなく、その息子の小谷某になります。
というのも小谷荘治郎は明治三十七年に亡くなって代が変わってました。

  • 2011/04/22(金) 01:37:01 |
  • URL |
  • 森重和雄 #-
  • [ 編集 ]

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