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よっぱ、酔っぱ。ただの酒飲みでよっぱなヲイラの戯言です。

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お竜の写真 No2

Category : 歴史

維新を語る会さんから「龍女写真 真偽騒動始末(西尾十四男氏遺稿)」という資料を頂戴した。


【ここから続き】

はじめに

この著書は故西尾十四男氏(秋風・平成十五年二月六日没)が存命中に書かれた「龍馬殉難西尾史観 総集二版(平成十一年五月十四日発刊)」より抜粋した箇所であります。

西尾氏は「龍馬の刺客に、時効は許されない!」をもっとうに刺客を追跡しながら、龍馬の生涯を調べていたのには敬服を称します。

2010年(平成十二年)は NHK 大河ドラマ龍馬伝が放映されることになり、今一度氏の記録を参考に追いながら真実を書き残したいと願っているのであります。

今回は特に龍馬の妻であった「龍女写真 真偽騒動始末」にスポットを当て、西尾氏との交流があった大西・川崎の二人が面識の方々を偲びつつ記録をしたものであります。

西尾氏の文中ではイニシャルになっている方も実名で発表をしており、この冊子を読まれた方が今後の追跡の糧になり、尚また大西・川崎の両人も誤りがあったと批評をされる事も願っている。

西尾氏の記録を書くのも二人で終りと自賛をしながら。

合掌

2010年初春

京都維新を語る会 大西荘三郎 川崎泰一 共著

西尾氏の調査過程や写真に関する第一次論争について詳細にまとめられた資料だが、全てをここで紹介する事は難しく(A4 30P 以上のボリューム)、論争の一部を紹介する。

西尾氏の著書だが、平成八年九月一日放送の日本テレビ「知ってるつもり」により真偽を問う論争がさらに大きくなったため、その始末を明らかにする目的で書かれたとされている。

同年七月一日宮地佐一郎氏の紹介で、同番組制作会社スタッフが西尾氏宅を訪問、その後西村兵造氏との面談となる。席上スタッフから「お龍は養女であるとのストーリで製作したい」と告げられた事により、西尾氏は感情を害し協力を辞退されるのだが、宮地氏の紹介である事から写真を提供された。

その後日本テレビは著作権者である井口家に使用許諾を請求されるのだが、申請書の記述に不備があり井口家から断られる事になる。後日西尾氏の仲介により「若き日のお龍と言われている写真」と但し書きを附記する条件で許可される事になる。

同番組への出演要請を当初若きおりょうの写真を使うと聞いた事から辞退した阿井景子氏は、「スタジオには問題の写真を掲げない」「『……といわれる写真』と断りを入れて見せる程度にする」との譲歩により出演を承諾される。しかし収録時、ストーリーのほとんどが写真で構成されており、写真が使用された内一箇所では、譲歩案の断りは無く"おりょう"と断定した紹介であった。阿井氏は経緯とともに「少なくとも疑わしいものを断定して、あたかも本物のようにみせるのは慎んでもらいたい。」との意見を雑誌現代に寄稿される。

又土井晴夫氏は自論と宇高氏の論証を基に「真偽定かでない写真を本物であるかのように扱った番組には納得できない。」との意見を、高知の「龍馬研究(106号)」に「竜の"偽写真"」とのタイトルで発表される。

両氏が共に挙げられている宇高氏の論証だが要約すると以下になる。

  • 写真のバックから浅草の内田九一写真館での撮影
  • 内田九一は一般庶民の撮影を行ったおらず、九一没後同写真館を継いだ長谷川吉次郎により明治九年ないし十年に撮影されたもの
  • 当時お龍は既に三十七、八歳。童顔の残る女性は別人
  • 東京土産として写真館で売っていたプロマイドで、モデルは吉原か深川あたりの芸者

阿井氏は「宇高氏の論証を崩せぬ限りおりょうの写真を認めるわけにはいかない」と発言されていた。

もう一人伊東成郎氏は「内田写真館の内装が変わっていなければ」との前提で、明治十四年十月一日「旧内田舎」との屋号で再開させた北庭筑波撮影の可能性も含め考慮すべきとし、風俗写真や写真館の見本写真ではないかと推察されている。

お竜といわれる写真は放送後、霧島のホテルから提供を受けた観光かごしま大キャンペーン推進協議会がPRパンフレットで使用したり、桂浜の売店で「お龍」として販売されたりしている。

写真発見までの経緯は前回書いた通りであり、西尾氏が昭和58年2月「ビックワールド」への寄稿で説明されている経緯は事実と異なる。又一時期西尾氏は「井口家で発見された写真こそが本物のお龍の写真であり、信楽寺の写真が偽物である。」といった趣旨の発言をされていた時期もある。

最後に写真についての発言をまとめておくが、発見時に記名は無く後年誰か(井口氏と考える)の手によって書き加えられたものと考えるのが妥当であることに変わりは無い。又、本当に井口氏が祖先からお龍と聞かされていたのなら、何故発見時西尾氏・宮地氏に伝えなかったのか?西村氏の証言が発表されるまでの約3年間もの間、公表しなかったのか?

あえて推測すれば西村氏の証言を聞き「そう言えばじいさんから何か聞いたような気もするな…。」といった思い込みが、何時の間にか「じいさんから、お龍さんだと聞かされている」に変わっていったのか、あるいは何らかの理由でそう証言しなければならなかったのか、どちらかでは無いだろうか。

いずれにしても現在お竜の写真説を唱えられる方が、「お竜」との鉛筆書きを同一人物の根拠とするには困難な状況だろう。今回紹介した経緯を十分理解された上で、誰もが納得できる根拠によりお竜の写真説を論証して頂きたいと思う。

  • 若き日の寺田屋おとせか、お龍とも思われたのであるが、裏面に記名がなく、むなしく放置されていた。(昭和57年12月22日 高知新聞 西尾秋風)
  • この写真は見覚えがある。祖母の所持品で、小学生のころたしかに手にとった記憶がある。(昭和57年12月22日 高知新聞 西村兵造)
  • 明治初年の女性。井口家のアルバムにあったもので風貌が寺田屋おとせに似ているので参考までに掲げる。(昭和57年12月刊 坂本龍馬写真集 宮地佐一郎)
  • 姓名の記載がなかったので、私は龍馬周辺の女性として今回の「写真集」に、「明治初期の女性、風貌が寺田屋お登勢に似ているので参考までに掲げる。」と紹介した。(昭和57年12月10日 毎日新聞 宮地佐一郎)
  • 寺田屋おとせ、坂本竜子の若き日の姿か、とも思えたのであるが、裏面に記名がなく、当時は確認のすべがなくてそのまま三年間放置されていたのである。(昭和58年2月 ビックワールド 西尾秋風)
  • なおも研究中ということにしておかれるように。(昭和58年2月 ビックワールド 井口家長老コウ夫人)
  • わしはじいさん(祖父新之助氏)から、お龍さんだと聞かされているが、そんな異論(宇高説)があるのなら、もうテレビなどに提供するのは止めにしよう。敢えて言い張るほどのことでもあるまい(平成3年11月頃 西尾氏取材 井口新助)
  • 龍馬研究者の間では、彼の恋人お龍ではないか、といわれる三十歳前後の女性の写真を巡り、真偽の議論が続いている。~台紙に鉛筆で「お龍」と書いてある。(平成9年11月14日 朝日新聞夕刊)

コメント

素晴らしい!

一点気がついたことがあります。

「内田九一は一般庶民の撮影を行ったおらず、九一没後同写真館を継いだ長谷川吉次郎により明治九年ないし十年に撮影されたもの 」
とありますが、これは正確には、以下のような状況でした。

「長崎で生まれ、写真術を習得し、後に明治天皇を撮影した幕末・明治初期の有名な写 真師・内田九一は明治八年二月十七日暁に、その才能を惜しまれながら三十二歳の若 で肺病のため死去した。
数年来、肺病にかかり吐血することも度々であったという。
おそらく二月十七日通夜、十八日葬儀が行われたのであろう。
そして翌明治八年二月十九日、王子大字堀の内字郷戸、松本順(良順)の抱え屋敷内 の松本家代々の墓地に埋葬された。
内田九一が亡くなった後、遠縁の娘・馬田良子を養女にして、この良子に婿(森總 一)を迎え、二代目・内田九一とした。
そして内田の写真館は、写真技術の巧みな長谷川吉次郎と古賀暁などの弟子たちが手伝い、内田九一夫人の「おうた」が後見となって、営業を続けていたが、徐々に経営 もうまくいかなくなってしまい明治十四年に廃業(倒産)してしまったようだ。
明治十四年九月三十日、内田九一と生前から交流があり、当時有名な写真師だった北 庭筑波が内田九一の浅草大代地の写真館を購入して、「旧内田舎」として翌十月一日 より再開業した。
北庭筑波は「九一の名跡が絶えるのを惜しんで再興した」のだという。
しかし、この北庭筑波の「旧内田舎」も明治十八年に廃業となってしまった。
内田九一の妻だった「おうた」は、明治十三年頃に蛎殻町の米商人島田慶助という男 といっしょになり、内田九一の門人・山際長太郎を伴って大坂順慶町三丁目に移転し た。
大坂順慶町は以前、大坂時代の内田九一が開業していた町で、「おうた」は大坂で芸 者時代に内田九一と出合い、いっしょになっている。
そして、「おうた」は順慶町心斎橋東(順慶町三丁目)に写場を設け、写真材料商も 兼業していたが、約十年の後、明治二十四年頃にはすっかりこの「おうた」の「内田 寫眞館」の名跡も絶えてしまい、その後その消息も聞かれなくなったという。

内田九一についての引用元

内田九一についての引用元は、自著の『幕末明治の寫眞師 内田九一』です。

詳しい情報ありがとうございます。

  • 2010/02/18(木) 22:21:41 |
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  • naka #upkHALyQ
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阿井景子著「龍馬と八人の女性」のあとがき

ちくま文庫で出た阿井景子著「龍馬と八人の女性」のあとがきに面白い情報が出てましたね。

  • 2010/04/13(火) 22:53:29 |
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  • 森重和雄 #-
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高知新聞 昭和57年12月22日(水曜日)朝刊(11)面

以下が先日、国会図書館で見つけてきた高知新聞の記事内容です。

高知新聞 昭和57年12月22日(水曜日)朝刊(11)面
若き日のお竜の写真発見

 来る一月十五日は、坂本竜馬の妻お竜
(明治八年に再婚して西村つると改名)
の七十八回忌である。この日を目前にし
て、彼女の若き日の艶姿写真を発見した
のである。
 だいたいお竜の写真は、明治三十一、
二年ごろに撮した六十歳ぐらいのもの一
枚きりということになっていた。ところ
が今回発見のものは、近江屋(竜馬が
遭難死した寄宿先)のご子孫井口新助氏
所蔵のアルバムから撮影させていただい
たものである。他のいわゆる維新の志士
と称せられる人物の肖像写真と一緒に保
存されていたため、これらの志士たちと
も有縁の女性と推察され、あるいは若き
日の寺田屋お登勢か、お竜かとも思えた
のであるが、裏面に記名がなく、空しく
放置されていた。
 さて最近、意外な事実が判明した。お
竜ことー西村つる女の子孫が京都で健在
だったのである。京都市下京区に住む西
村兵造氏は、お竜の第二の夫(西村松兵
衛)の兄兵蔵の直系で、その祖母ふさ刀
自(明治五年生まれ)は兵蔵の二女で、
お竜の養女となっていた。同氏は『この
写真に見覚えがある。祖母の所持品で、
小学二、三年ごろ、たしかに手にとった
記憶がある・・・』と言う。この写真はバッ
クの特色から、明治初年、東京浅草で開
業の内田九一スタンドであることが判
明、お竜は明治四ー七年ごろ(三十一、
四歳)東京にいた形跡がある。この写真
は、まさに本邦最初の見合い写真かもし
れない・・・・・・。
 【西尾 秋風=60歳・立命館史学会員、
京都市中京区西ノ原南聖町七】

  • 2010/04/17(土) 02:03:54 |
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  • 森重和雄 #-
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鉛筆(あるいはシャープペン)で書かれた「お竜」の文字について

明治初年の女性。井口家のアルバムにあったもので風貌が寺田屋おとせに似ているので参考までに掲げる。(昭和57年12月刊 坂本龍馬写真集 宮地佐一郎)
姓名の記載がなかったので、私は龍馬周辺の女性として今回の「写真集」に、「明治初期の女性、風貌が寺田屋お登勢に似ているので参考までに掲げる。」と紹介した。(昭和57年12月10日 毎日新聞 宮地佐一郎)
寺田屋おとせ、坂本竜子の若き日の姿か、とも思えたのであるが、裏面に記名がなく、当時は確認のすべがなくてそのまま三年間放置されていたのである。(昭和58年2月 ビックワールド 西尾秋風)
とという上記の記事内容から、井口家アルバムの芸者の写真のアルバム欄外、左下には最初は「お竜」の鉛筆(あるいはシャープペン)で書かれた文字がなかったのは明らかですね。
従ってこの文字の書き込みが誰であろうとそれ以降に書かれた文字であることは明快です。
だから宮川禎一氏の「たつ」=「お竜」=「お龍」=「おりょう」と解釈するのは無理があると思います。
事実関係は「たつ」と写真台紙裏に墨書きがある名刺版写真の半身像の写真がもう一枚見つかったということです。
ついでに書くとこの半身像の写真はさらにもう一枚見つかってまして、宮川氏が預かっています。
この写真の写真台紙裏側には現在、何も書かれていませんが、この写真は元は山科の古写真コレクターが所蔵していた写真を、宮川氏に預けたものです。根拠は全く不明ですがこの写真の台紙裏には鉛筆(あるいはシャープペン)で書かれた「土井」という文字がありましたが、この文字は勝手に消されてしまいました。(まぁ、赤外線などをあてて科学的に調査すればまた読めると思います)

  • 2010/04/18(日) 01:34:53 |
  • URL |
  • 森重和雄 #-
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「坂本龍馬副読本&21世紀長崎県観光便覧」のパンフレット

「大河ドラマ「龍馬伝」長崎県推進協議会」の「坂本龍馬副読本&21世紀長崎県観光便覧」のパンフレットp12に、この偽おりょうさんの写真が掲載されています。

お龍
「細面の瓜実顔はあくまで白く、
まったく典型的な京美人」32歳頃
の写真という。真贋論争があった
が、科学的鑑定でほぼ本人と確認
された。(京都国立博物館収蔵)
とこのパンフレットには写真説明がありました。

しかしながら、この写真は井口家アルバムの全身像の写真ではなく、井桜直美さん所蔵の、半身像のタイプの写真が掲載されていました。

そこで、なぜ「京都国立博物館収蔵」と書かれているか考えて見ると、この掲載された半身像の写真は、宮川さんが現在、隠し持っている、もう一枚の半身像の写真であることがわかります。

元は山科の古写真コレクターが持っていた写真で、写真台紙裏側に鉛筆書きで「土井」と書かれていた名刺版写真です。
(もっとも今現在は宮川さんが消しゴムで文字を消してしまいましたが。)
当然、この写真の使用許諾は宮川氏は、山科の古写真コレクターに取っておらず、著作権上も問題がありますね。
(宮川氏は、僕には山科の古写真コレクターとは連絡が取れない(連絡先が判らない)とメールで言っていますから、写真の使用許諾が取れないはずです)

井桜直美さん所蔵の方の写真ならば、井桜さんに改めて使用許諾を貰えば大丈夫ですが、この写真は井桜直美さん所蔵の方の写真ではありません。

当然、山科の古写真コレクターが気がつけば、無許可の勝手な写真使用ですから告訴されて確実にアウトの写真になりますね。

  • 2010/04/18(日) 01:57:18 |
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  • 森重和雄 #-
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疑問に思うのは?

宮川先生ご自身が、僕には山科の古写真コレクターとは連絡が取れない(連絡先が判らない)とメールで言っているにもかかわらず、勝手にいろんなところにこの半身像の写真を提供しているような動きですね。(井口家アルバムにある全身像の写真の使用許諾については問題ないと思います)
まぁ、今のところ具体的な事例は今回の「坂本龍馬副読本&21世紀長崎県観光便覧」のパンフレットですが、・・・

  • 2010/04/18(日) 21:48:59 |
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  • 森重和雄 #-
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一部訂正

「内田九一が亡くなった後、遠縁の娘・馬田良子を養女にして、この良子に婿(森總 一)を迎え、二代目・内田九一とした。 」
と書きましたが、今年金沢に調査に行きまして、その結果、これが誤りであることが判明しましたので、お詫びして以下のように訂正させていただきます。

「内田九一が亡くなった後、遠縁の娘・吉雄龍子を養女にして、この龍子に、軍馬(獣医)になるため学んでいた生澤總一を婿を迎え、二代目・内田九一(内田總一)とした。」

  • 2010/09/05(日) 01:20:44 |
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  • 森重和雄 #-
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「坂本龍馬副読本&21世紀長崎県観光便覧」のパンフレットの件

nakaさま

「大河ドラマ「龍馬伝」長崎県推進協議会」の「坂本龍馬副読本&21世紀長崎県観光便覧」のパンフレットp12に掲載されていた半身像のタイプの写真ですが、その後の調査でこの写真は、井桜直美氏所蔵の写真をそのまま「京都国立博物館収蔵」として提供されていたことが判りました。

従って、先の僕のこのブログでの発言は、お詫びして訂正させていただきます。
どうもすみませんでした。

  • 2011/02/13(日) 01:52:21 |
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  • 森重和雄 #-
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