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よっぱ、酔っぱ。ただの酒飲みでよっぱなヲイラの戯言です。

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薙髪

Category : 歴史

よく目にする「木戸公没後松子夫人は薙髪し「翠香院」と号し」って記述。これは真実なんだろうか?

2010年09月04日 14:10 追記あり。

2010年09月12日 05:20 追記あり。


【ここから続き】

木戸松子

晩年

明治10年(1877年)5月26日、西南戦争のさなか、夫・孝允が京都土手町木戸別邸(現在・京都市職員会館かもがわ 現住所:京都市中京区土手町夷川上る末丸町284番地)にて原因不明の脳病の発作及び胃病の為病死。その後、松子夫人は薙髪し「翠香院」と号し京都木屋町へ転居。二人の想い出深い京都にて木戸孝允の墓を護った。

幾松

歴史

木戸孝允没後、松子夫人は薙髪し翠香院と号し、お二人の想い出に溢れた当屋敷で余生をお過ごしになりました。

先ず薙髪との言葉だがgoo辞書では「髪をそり仏門に入ること。剃髪(ていはつ)。」、デジタル大辞泉では「髪を切ること。髪をそり落とすこと。剃髪(ていはつ)。」と解説されている。広義では剃髪(落飾)と同じ意味で使われる場合が多く、共に出家あるいは仏門に入る事を前提とした言葉と理解している。

木戸公没後松子夫人が髪を落とした(切った)事は、忠太郎氏や三本木芸妓の証言からも確かであるが、出家を前提としていたと証言しているわけではないし、出家した事を示す史料が存在するわけでもない。逆に在家仏教である浄土真宗の門徒であった事から、出家を前提にしているとは考え難い。仮に木戸公没後直ぐに在家の仏弟子として帰敬式を受け薙髪までしたのであれば、その時点から「翠香院」と名乗ったはず。しかし実際には松子夫人が亡くなる約1年ぐらい前、丁度体調をくずした頃からしか「翠香院」とは名乗っていない。それまでは木戸公没後も「木戸松子」と名乗っている。

松子夫人は「三つ輪おばこ」と呼ばれる髪型をしていた事から、「髪を落とす」とは髷を切り落とした事を指すのだろう。しかしこれは当時の風習から「今後愛した木戸公以外のためには髪を結わない」との貞節の誓いの意味で髷を落とし、未亡人の髪型にしたに過ぎないように感じる。

つまり「木戸公没後、松子は薙髪して「翠香院」と号した」は、「木戸公没後、松子は髪を落とし、病に伏した頃から「翠香院」と号した」までしか判断できる史料は存在しない。

旅館幾松が発信している「松子夫人は薙髪し翠香院と号し」というのは、何かの史料に基づいたものではなく、wikipedia 等の情報を孫引きしているだけであろう。実際のところ旅館幾松は松子夫人はもちろんのこと、生咲家とも何ら関係が無いため、松子夫人や生咲家の事に関する独自の情報は何も持っていない。公にされている情報をただ繋ぎ合わせ、利用客にもっともらしく説明しているに過ぎない。「佐久間象山や大村益次郎もよく利用した」なんて、何を根拠にしているのだろう。

又 wikipedia で当該記事を編集した方も、昭和四十八年に故赤見貞氏が出された「蜘蛛の網『名妓幾松』」か、あるいはそこから孫引きされた情報を信じておられるのだろう

同書はかなり間違いが多い。松子の両親は幼い頃に亡くなっているかのように書かれているが、、松子の両親についてはもう10年以上前に維新を語る会さんの調査で明らかにされている。

毎日新聞 1999年12月4日 地方版(京都)

木戸孝允の妻「幾松」の檀家記録見つかる 父は生きていた! 通説と食い違い/京都

~略~

通説では幼少期に父が死んだため舞妓になったとされるが、檀家記録には父が明治中期まで生きていたことが記されており、幕末・維新史研究に一石を投じそうだ。【今井竜】

京都市の相撲研究家が見つけ、歴史研究グループ「維新を語る会」が確認した。

~略~

これまで1851(嘉永4)年に市兵衛が死んで一家が離散、9歳で舞妓になったとされてきた。

しかし、今回見つかった檀家記録の生咲家の欄には、幾松の戒名「翠香院」と「木戸妻 清助妹」と書かれている傍らに「清助父 市兵衛」とあり、死亡日が「(明治)廿七(27)年五月二十日」と記されていた。

~略~

維新を語る会の大西荘三郎会長は「通説とは違い幾松の父が明治以降に生きていたことは驚き。幾松の他の家族のことも記されており、維新史の空白を埋めるうえで貴重な史料だ」と話している。

父親が行方不明になったとか早死にしたとか、母親が提燈屋に嫁いだとか早死にしたとか、見てきたかのように書いている本・SITE・WEBLOG が多いが、父親は明治廿七年、母親は明治十六年まで生きている。だから「父親が亡くなり、また母親も間もなく亡くなる」なんて記述は根拠の無い全くのでたらめ。木崎家では当主が代々市兵衛を継いでいたようで、松子が幼少の頃他界したのは祖父市兵衛。それを実父市兵衛と間違えたのだろう。

ついでに松子は兄が一人、弟・妹が一人ずつの四人兄弟。これも諸説色々と実しやかに書かれている場合が多いようだが、菩提寺の過去帳が捏造されたもので無い限り、そこに記されている事が事実だろう。

でもって旅館幾松が何も知らない事の証を書けば、木屋町通りには木戸夫妻に深く関係する場所が三箇所ある。現在も場所の特定には至っていない。

  • 槇村に仲介させた5番路地の寓居
  • 木戸公没後松子夫人が暮らした13番路地の寓居
  • 松子夫人終焉地である18番の寄留所

ところが旅館幾松では

幾松

歴史

当「幾松」は、幕末の頃倒幕運動に大きな役割を果たした維新の三傑の一人である桂小五郎(のち木戸孝允)と三本木の芸妓幾松(のちの松子夫人)の木屋町寓居跡です。 木戸孝允没後、松子夫人は薙髪し翠香院と号し、お二人の想い出に溢れた当屋敷で余生をお過ごしになりました。

と、5番路地と13番路地が同じ場所であるかのように説明しているばかりか、終焉地についても同所であると説明しているようだ。5番路地が13番路地になるのなら、突然路地が8本も増える事になる。まったく奇妙な話だ。w


2010年09月04日 14:10 追記

手持ちの史料を再度確認すると昭和3年に出た京都維新史蹟(京都市教育会編纂)でも「松子夫人は薙髪し翠香院と号し」といった記述がありました。しかしここでも市兵衛については誤った記述が為されておりその他の項でも間違いがあるため、同書を以って「松子夫人は薙髪し翠香院と号した」と判断できるとは思えません。


2010年09月12日 05:20 追記

大正13年に出た維新史蹟図説でも同様の記述があり、これが最初かなと思います。しかし忠太郎氏や三本木芸妓の証言のほうが信頼できるとの考えに変りはありません。なぜならリアルタイムで確認されている方達の証言だからです。

コメント

はじめまして。先頃『鴨の流れ』14号を拝見し、
興味深く楽しませていただきました。ありがとうございました。
その中で、木戸忠太郎と松子夫人の資料を集めているとありましたので
書き込ませていただきました。
読売新聞、昭和29年11月2日朝刊14面に木戸忠太郎の事が
「愛読者の思い出」のコーナーで夫妻の写真入りで紹介されています。~以下抜粋
『早いものですね。もう八十年の記念日を迎えるとは。
私が若狭国小浜藩士松本家からもらわれて木戸孝允の養子となったのは三歳のときで
明治7年です。ちょうどその年に読売新聞がオギャアと生まれたのですから・(略)・』
と、本人のコメントが載り、文学青年の頃、尾崎紅葉と知り合ったきっかけなども
語っています。ご存知でしょうか?
大阪府中央図書館では“ヨミダス歴史館”で明治大正昭和の読売新聞が閲覧できます。
中之島図書館でも閲覧できるそうです。コピーもとれます。
すでに、ご存知だったら申し訳ありません。
鴨の流れ次号が発売されるのを楽しみにしています。

メールを送りたかったのですが、よくわからなかったので、ここに書き込みました・

  • 2010/08/30(月) 11:49:32 |
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  • れじー #-
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れじーさん、はじめまして。

読売新聞の記事については知っていましたが原文をまだ見ていません。京都の場合ヨミダス歴史館は大学図書館しか扱っておらず、府立・市立の図書館ではマイクロフィルムになると思います。なかなか時間が取れず後回しになっている状態です。

大西会長ともこの件で話をしていますが、何故「若狭国小浜藩士松本家」が突然でてきたのかわかりません。叔父にあたる政治郎氏の子孫には伝えられていないようですし、千子夫人の日記でも小浜との付き合いは記されていないようです。

小浜に松本という藩士がいた事は事実のようですが、小浜藩士松本家が忠太郎の生家であるのか、養子縁組するために迂回された家なのか等々も慎重に調べる必要がありそうですね。

鴨の流れ15号は年内発刊を予定されているようです。

  • 2010/09/03(金) 21:44:38 |
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 レジーさんのコメント、オリオンさんややまなみさんのところにも届いています。忠太郎出自に関してまた新しい方からの情報ですね。例の博物館の学芸員さんはどんどん追い詰められて立場がなくなって行くようです。歴史を検証するのは科学的手法が必要だということでしょうね。他の人が推測で書いたものを史実とすることは学者にはできないはずです。売らんかなの商売に捻じ曲げて使うのはモラルに反するでしょう。「幾松」さんも早く史実にできるだけ近くなるよう訂正すべきでしょうね。それが今後の商売にもつながるはずと思います。

  • 2010/09/04(土) 10:28:17 |
  • URL |
  • みやきん #-
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みやきんさん、ご無沙汰しております。
orion さんのサイト拝見しました。
----------------------------------------
木戸孝允鑑ゲストルーム
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/guest.htm
小浜藩士松本氏が父で間違いないでしょう。
----------------------------------------

orion さんのところでは上記記述がありますが、ヲイラは現段階で「間違いない」とすることには賛成できません。先のコメントに書いた様に迂回された可能性やいくつかの疑問が残るからです。その疑問を一つずつ調査し潰せたときに始めて「間違いない」との言葉を使いたいと思います。

萩ものがたりの一件はその後どうなっていますか?貴ブログや萩市議会議事録を定期的にチェックしておりますが、新たな情報には辿り着けません。

  • 2010/09/04(土) 11:04:39 |
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先日は、突然書き込ませていただき申し訳ありませんでした。
木戸孝允日記、文書、関係文書を読むと
忠太郎氏は養子であるように感じていましたので
読売新聞の記事を知り、「やはり養子に間違いない」
と思い書き込ませていただきました。
ご指摘のとおり松本氏が父だと言い切るのは安易でした。
ただ、本人が養子と言っているので実子でないのは確かだと思います。

  • 2010/09/04(土) 22:35:53 |
  • URL |
  • れじー #-
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れじーさん

コメント欄は開放しておりますので、お気遣い無くいつでもご自由にお書きください。

忠太郎氏が木戸家の養子であることは間違いありません。しかしこの場合の養子とは戸籍上のことであり、仮に実父が木戸公であった場合でも婚姻関係の無い間柄に生まれた子は戸籍上実子とは呼ばれ無いでしょう。ですので血縁関係の有無についての実子かどうかは、戸籍上の問題と切り離して考えるべきだと思います。

実母が信であることはほぼ間違いが無いと思っています。一番の根拠は生咲家の伝承ですが、それを裏付ける史料も多々残っていますし確認もしています。

小浜藩士松本については現在大西会長が調査されていますが、生咲家・木戸家との関係を裏付けるものは未だ見つかっていません。

これは全くの推測でしかありませんが、小浜藩士松本とは忠太郎の養子縁組について木戸公が依頼した槇村の関係者では無いかと感じています。松子夫人が木戸公と結婚する際、一度岡部家養女となって身分をあわせたように、忠太郎氏も一度松本家の養子となってから木戸家の養子になったのではないか?それは槇村が企てたのではないか?そう感じています。

いずれしても忠太郎氏に関する史料は極めて少なく、名実ともに日本のトップであった木戸公のプライベートについては、書くことも控えられたのでしょうね。

  • 2010/09/05(日) 16:16:35 |
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私が木戸日記と文書を読んで忠太郎氏の事で感じた事を書かせていただくと、

妹の信さんが母というのは事実だと思います。
井上馨関係文書明治8年2月8日に
『Your wife探索の筋は妹何心なく・・・四方山之話より写真冊等取り出し其名を云い・・・』とあり、松子夫人の妹に忠太郎氏の父の名を聞きだしに行ったのかなと感じました。
忠太郎氏は、日記に明治8年頃から登場するので、
山口から帰る、この大阪会議の後、一緒に東京に連れて帰ったのかなと思いました。

ただ、木戸日記明治7年6月25日に、
『(土手町の新しく買った家に留守番のため)今日より木崎政太郎父子移住
其の母姉等にも始めて面会す』とあるので
この時はじめて松子の母と姉(当時、妹でも女のきょうだいは姉と表記していること
が多いから多分妹だろう)に初めて会っているので木戸が父でないと思いました。

また、忠太郎氏は明治4年4月14日生まれとの事ですから、
下世話ですが、その10ヶ月前の木戸日記を見ると、
明治2年12月から奇兵隊の鎮圧等で山口に帰っていて、
明治3年5月20日に三田尻から東京に帰る艦に乗って、
途中、艦の調子が悪く牛窓、神戸に1泊大阪で2泊して、
また艦で6月1日に横浜に着、2日東京帰宅。
なので、漠然と父は木戸では無いな~と思いました。
以上です。何の根拠もなく、日記と文書等を読んで、私が思った事です(笑)

関係文書の槇村正直が出版されたら、何か新しい事がわかるかもしれないですね。ではでは。

  • 2010/09/05(日) 22:40:57 |
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  • れじー #-
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れじー さん

読売の記事、やっと全文確認しました。面白いですね。

> また、忠太郎氏は明治4年4月14日生まれとの事ですから、
> 下世話ですが、その10ヶ月前の木戸日記を見ると、

よく調べておられますね。
大西会長から「ブログのコメント欄プリントしてください。それと鴨の流れ14号を御覧頂いた方(れじー さん)によろしくお伝えください」と言付かりました。

たぶんご存知だと思いますけど嘉治隆一氏の「人物万華鏡」面白いですよ。2年ほど前に購入し大西会長にお譲りしたんですけど、最近再度購入しました。

  • 2010/09/09(木) 00:19:14 |
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十年ほど前読んだ小説に、木戸と松子の事がひどく書かれていたので、
そんなものなのか、と思っていたのですが、
今年、木戸日記文書関係文書を読む機会があり、読むと全く違って
よく二人で出かけ、家事の用を命じたり、
お金の心配をしたり、ダイヤの指輪を買ったり(笑)
公務以外で東京を離れるときは必ず夫人も一緒に行ってますし
晩年は二人で洋行も望んでました。
どう読んでも、仲の良いごく普通の夫婦としか思えず、
ネットで色々みていましたら、こちらで『鴨の流れ』を知り
その中で『人物万華鏡』も知る事が出来購入して読ませていただきました。
とても興味深い内容でした。本当にありがとうございました。
忠太郎氏はすばらしい人柄の方だったようですね。
そのように育てた松子夫人の事もしのばれます。
ただ、木戸の場合本人が書いた一級の資料(日記・手紙)があるのに
簡単に手にして読むことが出来ないのは残念です。

  • 2010/09/09(木) 23:07:49 |
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  • れじー #-
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れじーさん。

人物万華鏡お持ちだったのですね。
松子夫人が如何に忠太郎を大切にしていたのかが読み取れますし、富士見町の住居新築工事のくだりは、今の政治家に見習わせてやりたいと感じました。
同書でも書かれている西島夫妻に充てた松子夫人直筆の書簡が残されています。そこでもやはり忠太郎に関する内容が多いです。

「鴨の流れ」、京都なら地下鉄天神川駅の地上にある右京図書館にバックナンバーが数冊欠落しているだけで蔵書されています。ヲイラも時間のあるとき、順番に複写しにでかけています。初めはガリ版刷りでしたので文字が不鮮明な箇所もありますが、どれも興味深い内容ですよ。

今日も大西会長と電話で話していたのですが、何故・突然、読売の取材に"だけ"、小浜松本家の話をしたのかが不思議でなりません。今後の課題です。

ヲイラは今後松子夫人の兄弟が暮らした場所について、旧土地台帳等で調査する予定です。

  • 2010/09/14(火) 00:38:23 |
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木戸ファンとして日記等を読む以外、何もするすべが無く
新聞記事の事を書き込ませていただきながら申し訳ない気持ちです。

忠太郎氏のことは、木戸の子ではないと思っていますが、
木戸と松子が引き取って育てたということは、
両親が育てるのに幸せな環境で生まれた子ではないように思います。

西島夫妻とは、木戸家居候の西島青甫と奥さんは木戸家の女中さん?だった
みねさんですよね。きっと。
木戸の死後、京都に移り住んでからも手紙のやり取りがあったのですね。
晩年の松子にとっては忠太郎だけが生きがいだったのかも・・・

鴨の流れのバックナンバーは、機会があればぜひ拝見します。

吉冨簡一は、木戸孝允の盟友ですよ。夫婦で仲が良かったようです。
木戸にとっては公私とも何でも知られてる仲でしょうね。多分(笑)
よく東京の木戸家にも来て泊まってます。
井上聞多とも仲が良くて、聞多が作った先収社(三井物産の前身かな)の
大阪店の社長だったはず。(明治7~9年頃)
多分、現存している木戸の最後の手紙(明治10年5月4日付)も
吉冨簡一宛と松子夫人宛ではないでしょうか。

  • 2010/09/14(火) 22:35:53 |
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  • れじー #-
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れじーさん

> 西島夫妻とは、木戸家居候の西島青甫と奥さんは木戸家の女中さん?だった
> みねさんですよね。きっと。

そうですよ。

> 木戸の死後、京都に移り住んでからも手紙のやり取りがあったのですね。
> 晩年の松子にとっては忠太郎だけが生きがいだったのかも・・・

うん。そう思います。
書簡でも西島夫妻を信頼している様子が伺えますし、忠太郎を本当に大事に思っていたことも。

> 吉冨簡一は、木戸孝允の盟友ですよ。夫婦で仲が良かったようです。
> 木戸にとっては公私とも何でも知られてる仲でしょうね。多分(笑)

さきほど木戸関係文書を公開されているサイトさんで確認できました。
木戸公と親しい間柄であったということは槇村とも交流があったのでしょうね。何か確認できる史料があれば教えてください。

木戸公没後の松子夫人と槇村の交流も未知の世界です。松子夫人終焉地については過去の記事で推測を書いていますが、槇村が密接に関係していたのでは?と考えています。

  • 2010/09/15(水) 19:59:59 |
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  • [ 編集 ]

先収社の話は『木戸松菊逸話』に載っています。
(確か益田孝の項だったと思いますが・・・)

あとは、日記文書以外ではわかりません。

  • 2010/09/15(水) 23:39:52 |
  • URL |
  • れじー #-
  • [ 編集 ]

驚嘆

各位さま

実に詳細に調査されていて、その内容に驚きました!
面白かったです。

  • 2011/05/10(火) 00:24:19 |
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  • 森重和雄 #-
  • [ 編集 ]

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